鴨越にある芭蕉の句碑の隣にある句碑

<おん母の 統(しる)しめすかに 良夜なる 磽生>

西大寺の芭蕉の句碑で鴨越にある芭蕉の句碑を紹介しましたが、その隣に設置されている句碑をご存知ですか。
磽生とは誰か? 句碑の背面にある昭和56年6月吉日 武田裕子建立の武田裕子と磽生の関係は? 等の疑問がありましたが今回、解決しましたので、その内容を以下に記します。

武田磽生の句碑

右端が武田磽生(こうせい)の句碑
その左が武田樗江(ちょこう)が建立した芭蕉の句碑鴨越にある芭蕉の句碑の隣にある句碑

<おん母の 統(しる)しめすかに 良夜なる 磽生>

<釈文>
浄水地の丘の上から十五夜の月を詠んだ句です。
月が日本だけでなく広い全世界をくまなく皓皓と
照らし出している様は、まるでマリア様がこの
平和な天下を治めて下さっているかのようだ

西大寺の芭蕉の句碑については、平成27年度の第43回西大寺公民館文化祭に展示発表しましたが、ある人から、鴨越にある芭蕉の句碑の隣にある句碑の事を尋ねられたのですが、お答えすることができませんでした。 それから、手掛かりがないまま日々が過ぎていきましたが、西大寺緑化公園のボランティア仲間の武田治郎氏が鴨越にある芭蕉の句碑を建立した武田樗江の子孫であることを知りました。

武田治郎氏は驚くべきことに、栗原景太郎氏、白瀬京子氏(南極探検隊の白瀬中尉の弟のお孫さん)と共に、日本人初のヨット「白鴎号」による世界一周航海を成し遂げた人物だったのです。
時に1969年、昭和44年、武田治郎氏27歳の時のことです。
1969年5月、江ノ島ヨットハーバーから小型ヨット「白鴎号」で西周りに出帆、翌1970年8月22日、日本人として初の小型ヨット世界一周を達成。 船員は3名(艇長:栗原景太郎、クルー:武田治郎、白瀬京子(白瀬矗の弟の孫))。
この計画は栗原が神戸商船大学在学中から温めていたものだった。
白鷗号の航跡
栗原景太郎 – Wikipediaおよび栗原景太郎HPより
栗原景太郎『白鴎号航海記』 感想
こんな偉業を成し遂げた人物が西大寺にいることを誇りに思います。また、知ってもらいたいと思います。

さらに、鴨越にある芭蕉の句碑の隣にある俳句の作者が武田治郎氏の叔父さんにあたる武田磽生(本名 實)氏であることが分かりました。したがって、武田磽生氏も武田樗江の子孫ということになります。
そして、武田磽生氏の夫人である武田裕子氏が磽生氏の七回忌にあわせて、句集(風鈴)(非売品)を出版していることも分かりました。
武田磽生氏は子供から大人に成長する一番大切な時期に、不運にも病気に冒され、転地療養のため、鎌倉の療養所に入所、この頃から俳句を始めました。終戦の時に帰郷し、岡山の療養所に入院、右肺摘出手術を受け、病状快方に進み、その間、三木朱城氏に師事し、病院内の俳句を集めて世話役などもします。退院後は気の向くままに、夕刊岡山新聞、山陽新聞などに投句をつづけました。
「風鈴とひねもす遠き爆音と」 これは、戦中に朝日新聞文芸欄に掲載された句です。

句碑は「昭和56年6月吉日 武田裕子建立」とありますから、武田磽生氏がご存命中に建立されていたことになります。
句碑の俳句は昭和33年頃の作品とのことです。
この句集のあとがきに裕子氏が次のように記しています。
亡き主人は生前より句集を出したいと常に言っていました。仕事を終えて帰宅しても毎晩のように商工会議所会へ通い、苦労をしてワープロを覚え、自分で原稿を作成していましたが、遂にその思いを果たさず亡くなってしまい、さぞ心残りのことと思います。あたかも今年九月に七回忌を迎えるにあたり、その遺志を継いで遺句集として出版することにいたしました。(後略)
平成13年8月15日 武田裕子

武田磽生の句碑(表面)
武田磽生の句碑(表面)
武田磽生の句碑(背面)
武田磽生の句碑(背面)
武田磽生の句集
武田磽生の句集

 

作成:2016年6月13日 愛郷会 藤井

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