「正富汪洋直筆のはがき」について

正富汪洋(まさとみ おうよう)という人物を知っていますか。
本名は正富由太郎。邑久郡本庄村(現瀬戸内市邑久町本庄)出身の文学者です。
明治14 (1881) 年4月15日に生れ、閑谷黌を経て(20歳で)上京し哲学館(現・東洋大学)に入学します。卒業後、与謝野鉄幹前夫人・林滝野と結婚します。
明治38年、尾上柴舟を中心に若い歌人が集まり、<車前草社>を結成した際、若山牧水、三木露風、有本芳水とともに汪洋も加わります。
大正7年、詩誌「新進詩人」を創刊、昭和9年まで続けます。教職にも就きますが、昭和24年、日本詩人クラブを創設し、その発展に尽くしました。
明治38年『夏びさし』、39年『小鼓』、大正9年『豐麗な花』など、生涯を通して充実した詩作活動を続けました。
竹下夢二とは生家が近く、同じ明徳尋常小学校に通い、幼な友達でした。
郷里の国司丘(くにしがおか)には汪洋の詩碑が建てられています。
-吉備路文学館HPの正富汪洋の文学者紹介より-

<記念碑に刻まれた詩>

「柿の実に柿の実の味 りんごの実にりんごの実の味 割られても切られても失われない味 ののしられ蹴られ、殺されても傷つけられない味  すぐれた人のすぐれた味」

直筆と思われるはがき

正富汪洋の直筆と思われるはがきは、正富由太郎が差出人で池内儀三郎宛のはがきです。
このはがきは、平成2年6月に岡山市東区幸地崎町在住の池内達雄氏から西大寺文化資料館に寄贈された資料の中から発見されたものです。
差出日が、明治34年8月なので、正富由太郎(汪洋)が20歳の時のことになります。
20歳で上京しているはずなので、夏休みで一時帰省していたのでしょうか。
一方の池内儀三郎は明治17(1884)年12月生れとのことなので、17歳のことになります。
池内儀三郎が上京についての相談の手紙を出しており、その返信と思われます。
意訳は次の通りです。異論があれば、ご指摘をお願いします。

再度のお手紙をありがたく拝見しました。
この度は、上京の意思あるものの、事情により延期になったのですね。
少年の特色は活気ある活動にあると考えます。
世の老人はむやみに年少者の上京に反対していますが、その人について見聞きせず、その意欲を挫くのは感心しません。
私は、人によって勧めたり、引き止めたりすることはあると考えます。
英語学などは、地方でやるより好結果を得るのは勿論あると考えるので、よくよく考えてください。
閑谷校の生徒で上京に同行する者が一人いるので、上京の意思が堅いのであれば、三十日早朝に岡山西中山下車町白井薬店に来てください。同道をお願いしますので。

原文とその読み下しは次の通りです。

正富汪洋の直筆と思われるはがき
正富汪洋の直筆と思われるはがき

<はがき表面>
(宛名)   邑久郡大宮村(現岡山市東区西大寺一宮)
池内 儀三郎どの  (八月廿七日イ便 受付消印)
(差出人)  本庄村本庄(現瀬戸内市邑久町本庄)  (池内章 印)
正富 由太郎(正富汪洋)
至急:八月廿六日
(差出日)  (明治三十四年八月二十六日ハ便 差出消印)
(郵便官製ハガキ代 一、五銭)

正富汪洋の直筆と思われるはがき
正富汪洋の直筆と思われるはがき

<はがき裏面>
再度の御書簡 有難く拝見仕り候 此度は上京の御思召ありしも事情の為延期相成候由
少年の特色は活気に存ず活動に有りと愚考候 世の老衰者ややもすれば漫(みだり)に年少者の上京をとどむにして其の人の性情と嗜好と奮発とを以聞(いぶん)せずして其の勇気を挫くは洵(まこと)に感心せざる事に候 一人は知らず小生は人に因(よっ)ては遊学を勧誘するも強(あなが)ち引止めざるをよしと考え候
(だんだん、字が小さくなる)
英語習学の如きは地方にあるよりは好結果を得るは勿論と考える何分御熟考被遊(あそばされ)度
此度閑谷生徒にして同行する者も一人に御座候三十日若しくは三十一日岡山駅出発
(余白がなくなり、下部字間余白に記す)
三十日早朝岡山西中山下車町白井薬店に参るべく堅く御上京相成る御考えに候
はば 同道可願(ねがうべく)候

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