西大寺を二度訪れた伊能忠敬(2)

最初の西大寺

1.第五次測量 文化2(1805)年2月25日~文化3(1806)年11月15日

紀伊半島*中国沿岸*岡山城下*赤間関*山陰海岸
江戸を出発し、東海道を沼津、浜吊湖を経て桑吊に到着。ここで大手分けを行い、支隊は伊勢の海岸、本隊は街道を測量して、山田 (伊勢市)で合流。のち紀州沿海を一周し大阪に着く。京都、大津を経て、琵琶湖を一周。
岡山に到着。データの整理や控え図の作成などをしながら、越年。
岡山出発、複雑な瀬戸内海の沿海と島々を測量しながら、赤間関 (下関) に達する。
忠敬は4月末より持病のおこりとなり、移動しながら療養する。萩、浜田、松江と進み、忠敬は療養のために松江に残り、測量隊は隠岐に渡る。隠岐全島、出雲、宍道湖を終えたころ、忠敬の病も癒え、松江を出発。
山陰海岸、若狭湾、琵琶湖の東西の街道を測量ののち、東海道を東進、熱田着。以降は測量を行わずに東海道を江戸に向かう。途中何カ所かで天測を行って、品川宿に帰着。

時期 記事
文化2年11月12日 朝曇天。六ツ後牛窓村出立。●高橋、永澤、佐藤へ東河差添海岸東片岡村迄測。●下河辺、稲生、小坂、牛窓湊より岡を東片岡村迄測ル。●両手一同ニ八ツ後ニ着。●止宿東片岡村字宝伝、伝治郎、嘉三郎、吉治郎三軒。●此夜雨。四ツ頃より止テ曇天。
11月13日 朝中晴。●七ツ半頃東片岡村出立。●下河辺、永澤、小坂、東河差添、(栄二、半六)、犬嶋へ渡リ沖鞁地嶋、犬嶋、竹子嶋、沖竹子嶋を測。●西風強シテ波高し。●夜ニ入テ南幸田村へ着●高橋、稲生、佐藤、(吉平、丈助)、東片岡より海辺を南幸田村へ鎖ニテ測。●止宿南幸田村磯屋太平。●此夜晴天測量。
11月14日 朝中晴。●六ツ後南幸田村出立。●手分高橋、永澤、佐藤、角二、乙子より西大寺村迄鎖ニテ測。●下河辺、小坂、稲生、(栄二、丈助)、南幸田村より乙子村迄測(此所にて中食)。●両手八ツ後西大寺村へ着。●止宿坂口屋松左衛門。●坂部、平山、吉平病気。●(利助は長々病気。荷物宰領)。●此夜晴天大西風。●測量上正。●此夜上道郡大庄屋浅越村河合武兵衛、神崎村岡崎藤右衛門、新村草井六郎右衛門、御野郡大庄屋岩藤嘉左衛門、同断田中村長瀬岩太郎出ル。
15日 朝曇天。六ツ後西大寺村出立。●手分。●高橋、下河辺、稲生、佐藤、(栄二、丈助)、九番村より初、一番村迄測ル。●我等、坂部(出勤)、永澤、小坂、(角二、半六)、西大寺村より九番村迄測テ合測。●中食。●宿射越屋紋八(家作、諸器ともによし)●八ツ後両手共一番村ニ着。●止宿安太夫。●此日郡蔵を岡山へ遣、越年の止宿を相談す。●暦局へ用状を出す。●(吉平、昨日より病気)。此日昼頃より雪降風、山々雪と成。●七ツ頃より晴ル。夜測量。

第五次測量 文化2(1805)年2月25日~文化3(1806)年11月15日

2.測量隊員の説明

  • 東河は伊能忠敬の号、我等や勘解由、推歩先生(推歩とは暦学のこと)も忠敬のこと。
  • 高橋は高橋善助(天文方下役)、忠敬の師匠である高橋至時(よしとき)の次男
  • 下河辺は下河辺政五郎(天文方下役)
  • 坂部は坂部貞兵衛(天文方下役)
  • 永澤は永沢藤次郎(内弟子)
  • 佐藤は佐藤伊兵衛(初め下僕、のち供侍)
  • 稲生は伊能秀蔵(内弟子)のこと。忠敬の子
  • 小坂は小坂寛平(内弟子)
  • 平山は平山郡蔵(内弟子)
  • 丈助、栄二(栄治)、半六、角二は従者
  • 吉平、利助は竿取り

3.測量日記について

「犬嶋へ渡リ沖鞁地嶋、犬嶋、竹子嶋、沖竹子嶋を測《は、現在の地吊で 沖鞁地嶋は沖鼓島、犬嶋は犬ノ島、竹子嶋は地竹ノ子島、沖竹子嶋は沖竹ノ子島と思われる。
西大寺村より九番村迄の間にある射越屋紋八という宿屋で昼食を取っているが、家の造作、料理の器ともによしと褒めている。
想定以上に瀬戸内の海岸線が入り組み、姫路沖の家島諸島の測量にも手間取ったため、年末が近づいてしまったので、 岡山で越年し、測量を継続するか、一旦、江戸へ戻るか否かの暦局へ相談をし、結果的に測量継続することとなったそうだ。
11月15日に雪が降ったと記されているが、新暦では1月3日に当るので、紊得。
12日、13日は「東河差添(忠敬が付き添って)《と記されているが、14日、15日はその記載がない。 病人が出たので、看病でもしていたのだろうか。
第八次測量時では道中にある神社仏閣や吊所の吊前が頻繁に出てくるが、第五次では全く出てこないのは何故であろうか。

 

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