西大寺の歴史-その1-

西大寺の変遷と今も残る町名を探る

西大寺が地名として用いられるようになったのは、我が国の郷村の発生期である室町時代中期以降と思われる。
西大寺村という表記が見えるのは、撮要録の慶長11年(1606)の検地帳に出ているのが初出である。
江戸時代の終りまで西大寺村が使用され、明治に入ってもそのままの呼び名が続いた。

明治22年6月町村制が施行され、町村の区域名称を変更して、浅越・吉原・西庄・広谷・松崎・中野の6ヵ村を合わせて芳野村とし、旧村名を大字としたが、西大寺村、金岡村はそのまま残し、ただ金岡村から金岡新田を離したのを金田村と称した。

西大寺村は明治29年2月26日(旧1月13日)西大寺町となったが、昭和12年金岡村と合併して、西大寺・金岡の大字となり、同15年12月芳野村と合併して、芳野村の6大字は西大寺町の大字となった。
しかし「大字」という文字は用いず、西大寺町西大寺、同町金岡、同町浅越……同町中野の如く称えた。
以上は行政上の名称であるが、市街地である旧西大寺町は別に自治組織の上から18区画を定め、次の呼び名を用いた。
上之町(もと上新堀)・沖・金山・新堀町・北之町・中福町・川崎町・市場町・本町・幸町・新町・掛之町・元町・駅前通・旭町・中村町・今町・渡場町

昭和28年2月、14町村の内の西大寺町と古都・可知・光政・津田・九蟠・金田・豊・幸島・太伯各村と邑久町の内の長沼(東谷地区のぞく)の11町村が合併し、西大寺市を新設、かつての西大寺村域に市役所を構えた。翌年には邑久郡大宮村の内の一部(宿毛)が西大寺市へ編入し、続く同30年に上道郡雄神村・邑久郡朝日村の2ヶ村が編入、さらに同31年には邑久郡大宮村(千手地区の一部は牛窓町へ編入)が編入合併し、現在の西大寺エリアが確定した。

西大寺市は地域の振興政策に積極的に取り組んだが、岡山県南百万都市構想を経て、活路を岡山市との合併に求めることとなり、昭和44年2月18日に岡山市への西大寺市の編入合併が成立、16年間の市政にピリオドを打った。

平成21年4月1日には、岡山市が政令指定都市へ移行し行政区が置かれ、当地は東区の管轄となり、旧地域センター(支所)が東区役所本庁となる。当地は本庁の管轄となった。

以上が西大寺の行政区の歴史である。

これ以前の歴史については、「西大寺14号」旧西大寺町の地名(青江文治氏著)その他を参照されたい。

前述の自治組織上の18区画のうち、西大寺学区の町内会の町名として今も残る次の町名の起りを記す。

市場町(いちばちょう)

古くから寺の門前で定期市場が開かれていたから町名として名づけられた。
しかし江戸中期には市場筋と呼ばれていた。

北之町(きたのちょう)

江戸中期には、観音院の北にあたるから、北口といっていたのが、後に北之町となった。

中福町(なかふくちょう)

市場町と北之町の中間にあって、中の福をとって付けたと伝えられ、江戸時代の寛政年間には既に中福田町橋本屋という名が天保13年作犀戴寺略譜に出ている。
恐らく中福田町が中福町の前名であろう。

本町(ほんまち)

江戸中期には、観音院の西にあたるから、西口といった。
この筋は寺前と、西川に近い方から人家が建って、次第に東西から中央へ集まったようである。
後に舟運による参詣がしだいに陸運に変わった明治時代には、町の中心になる賑やかな通りであったからであろうか、本町といっている。
市場町と対抗の意味も多少あったかも知れぬ。

掛之町(かけのちょう)

二説あり、一つは、堤防ができた頃、家を建てるのに、南側が吉井川の洪水の危険があるので、北側ばかりに建った。その建物を安定させるために懸造にした。これから掛之町の名が起った。
もう一つは、池田候の文久年間の西大寺村に懸野專哉という医者が今の掛埜町辺りの五人頭格組として自治体制を整うていたものであろう。それでこの医者の名字をとって懸野町といった。
これが掛之町と変化したものと思える。

渡場町(わたしばちょう)

天正10年豊臣秀吉が備中高松城を水攻めにしている間に、本能寺の変が起り、急いで京都に
帰る途中山陽道を帰ると、いつどこで敵軍に襲われるかもしれぬというので隊を分散して帰った。
その中にある隊が海岸を通って中野の梅ヵ枝橋を通り、西大寺の西川に架かっている豊國橋を渡った。
そうして大雁木から吉井川を渡って対岸の中島という所に着いた。秀吉を渡したのは中島の百姓で、
一頃まで向浜の避病院下手に波止場が残っていた。
こういう事があったので、中島は江戸時代には免税地であったと伝えられている。
犀戴寺略譜に寛政年間に豊町岩田屋久五郎の名が出ている。豊町とは恐らく渡場町のことであろう。
渡場町は後に西大寺の一番下だから下之町ともいわれたのであろう。

幸町(さいわいちょう)

本町に本油屋という家があった。主人井原富寿は松垣舎と号し、頼山陽が来西した時には、この家に宿泊していた。酢・醤油の醸造をし、油も販売していた。その醤油樽を洗うために、権現地の傍から細川を引いたのが、現在清明寮の裏に残っている小川である。
この本油屋の総領伊原藤三郎が分家をするとき、田畝の中に一軒の家を建て、我が家の幸いなるを祈った。
これが幸町の名の起りだと伝えられている。後には旅館と料理屋をしていたこともある。
今の池畑・宗政家辺りの三軒分がそれである。花屋の所を幸町口と呼んでいたこともある。

川崎町(かわさきちょう)

市場町と西川をはさんで対岸の町であるが、市場町に含まれていた。ところがそこにも家数が多くなってきたので、独立して川のさき(はし、近い所)にある町との意味から、川崎町となった。

新堀町(しんぼりちょう)

もとは広い原であったが、従来掛布之町、市場町、中福町、北之町などに住んでいた人や他村の人が段々と家を建てて移るようになり、一つの町を形成するようになった。
新しく掘った川の傍の町だから新堀町と呼んだ。上新堀と下新堀とに分けている。上新堀には農家があり、また下の町に対して上の町ともいっている。

元町(もとまち)

大正11年から昭和3・4年にかけて、それまで田地であった所に、住宅を建てたいという希望者が住宅組合を作って、しだいに町家を形成していった。
竹内治道という代書人が組合長をしていて、この人を中心にみんなで、その地がちょうど駅と寺との中間にあるから、将来この通りが西大寺町が栄える元になるようにという意味でつけた名である。

今町(いまちょう)

掛之町、下之町の間に商家が並んだ時に、つけられた町ではなかろうか。「今」という字がついているからといって、必ずしも一番遅くできた町とはいえない。相当古い家並みもあるからだ。

中村町(なかむらちょう)

観音院という寺と金岡村の中程にあって、最も早く農家が集落をつくっていたものであろう。

旭町(あさひちょう)

昭和24年に元町から別れて、旭のごとく、栄えよという意からつけられた。

西大寺町市街全図(西大寺町勢要覧S26) PDF をご参照
(出典)西大寺町誌、「西大寺14号」旧西大寺町の地名(青江文治氏著)より

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