西大寺の芭蕉の句碑

西大寺にあるもう一つの芭蕉の句碑を訪ねて

西大寺に二つの芭蕉の句碑があることをご存知でしょうか。
西大寺の芭蕉の句碑については、西大寺愛郷会発行図書「西大寺 第14号(平成元年2月発行)」の、「西大寺の芭蕉の句碑」(藤原大八氏記)に詳述があります。
一つの句碑については、普門院の境内にあり、西大寺町誌にその記述があり、西大寺の神社・遺跡巡りにも紹介されています。
しかし、もう一つの句碑については、知る人ぞ知る存在で、元久保東郷土民芸資料館の庭から西大寺鴨越水源地にある鴨越亭の横に移設されていたことが判明しました。
西大寺の先達の方々が遺された貴重な文化財を広く知らしめるべきとの思いと、「西大寺の芭蕉の句碑」(藤原大八氏記)の後日談として、追跡調査結果を報告いたします。

普門院の句碑

一つの句碑は、西大寺中1丁目(新町)にある普門院という真言宗のお寺の境内にあります。
さまざまの ことおもひ出す 桜かな』という句で、貞享5(元禄元年)(1688)年の春に詠まれたものです。
芭蕉が奥の細道の旅に出る1年前、生れ故郷の伊賀上野(現在の三重県伊賀市上野赤坂町)に帰省した時に詠んだ句で、時に45歳の作です。

<句意>

ふるさとである上野に帰って今は亡き旧主禅吟公の庭前に昔のように咲き乱れている桜を見ると、自分が若い日旧主に仕えた日のことなど、この桜にまつわるさまざまのことが思い出されてならない。

若き日の芭蕉は藤堂藩の侍大将藤堂新七郎家に仕えていた。嫡男良忠公は禅吟と号し北村季吟に俳諧を学ぶ若き青年武将であった。芭蕉は禅吟公から格別の恩寵と待遇を与えられ、新七郎家の下屋敷である八景亭にも幾度か随従し、俳諧の途に進む学友として苦労も喜びも共に味わっていた。
そんな中杖とも柱とも頼むべき主君禅吟公が寛文六年、二十五歳の若さで夭折した。
芭蕉は失意の中、当家を退き京都へ遊学、血の滲む思いの苦闘の中やがて江戸に下り俳諧宗匠として認められるまでになった。
主君の死後二十二年の歳月が流れ芭蕉は貞享四年に上野へ帰郷、翌春ののどかな日、旧主蝉吟公の遺児である探丸の招きにより、八景亭(新七郎家の下屋敷)での花見の宴に参列し禅吟公との交情の数々を心に秘めて挨拶の句を作り、懐紙に書きとめた。

<建立時期>

「天保14(1843)年)芭蕉百五十回忌には西大寺連中が普門院に桜塚を建つ」
「文政11(1828)年春、西大寺の一凰、雨石、翆兄、蕉翆ら普門院境内に桜塚を建つ」と西村燕々の『吉備俳諧略史』にあり、記述の真偽と建立年代は不祥です。
ちなみに、「寛政5(1793)年芭蕉の百回忌を迎え、五尺莽は福渡に「桜塚」を建て」と『吉備俳諧略史』にある。(現住所:岡山県岡山市北区建部町福渡)

もう一つの句碑=鴨越の句碑

もう一つの句碑は、西大寺鴨越水源地にある鴨越亭の横に設置されています。流浪の旅(移転経歴)を経て、現在の地にあるということを今回、訪ね、たどり着き、確認しました。その経緯を含め、以下に記述いたします。
けごろも(敞のしたに毛)に つつみてぬくし 鴨の足(脚)』という句で、元禄6年(1693)の冬に詠まれたものです。
芭蕉は、奥の細道の旅を終えて5年後の元禄7(1694)年10月13日に51歳で亡くなりました。
したがって、この句は死の前年の冬に詠まれたものになります。

<句意>

【新潮日本古典集成芭蕉句集・今栄蔵 校注】より
「鴨の短い脚が、ふっくらした毛衣のような腹毛に包まれて、見るからに温かそうだ。」
※「けごろも」は鳥の羽で作った衣。

<建立時期>

「文政11(1828)年、連中の樗江(ちょこうと読むのでしょうか)また何年にか上道郡鴨越に芭蕉句碑「けごろもにつつむてぬくし鴨の脚」を建つ」と『吉備俳諧略史』にありますが、
これも建立年代は不祥とのことです。鴨越と鴨のつながりでこの地にこの句を建立したのでしょうか。

また、芭蕉の百回忌(寛政5(1793)年)や百五十回忌(天保14(1843)年)に、各地で、句碑の建立が行われたという
記録があり、百二十五回忌に建立したことも考えられます。

<移転の経緯>

樗江は、安政二年(1855)85歳で歿した俳人で武田樗江のことで、西大寺の鴨越で弁柄製造の合弁会社昭和鉱粉所
(現在は廃業)を経営していた武田家の祖先になります。
この句碑は、樗江が前述の鴨越の武田家の墓所に建立したとされています。
その後、流浪の旅が始まる訳ですが、河本町在住の熱田潔司氏談によると、以下の通りとなっています。
まず、この句碑を、多くの人の目に触れてもらおうと、鴨越の井堰を見下ろす西大寺の水源地入口(現、阿字観弘法大師寺前)へ移されたとのことです、その時期については不祥です。
更にその後、今から40年位前、昭和50(1975)年頃に、久保東郷土民芸資料館が設立された時、設立者で館長の片岡重良氏が、武田家にお願いをして、同館の庭に移設したとのことです。
その久保東郷土民芸資料館も時代の流れと、運営、維持管理等のこともあり、閉館やむなきとなってしまいました。
そこで、今から17年位前、平成10(1998) 年頃、持主の武田氏が市と相談をして、現在の鴨越水源地の鴨越亭横に再び移設したということです。
このような幾多の流浪の旅を経て、安住の地を得たと言えるのではないでしょうか。

冒頭にも申しましたが、いずれにしても、西大寺の先達の方々が遺された貴重な文化財です。
広く知らしめ、永く伝承していくべきではないでしょうか。一度、訪ねてみてください。
(2015年9月15日(10月14日改定) 藤井 英幸記)

普門院の句碑

普門院の山門
普門院の山門

普門院の句碑普門院の句碑

鴨越の句碑

鴨越亭横
鴨越亭横

鴨越の句碑鴨越の句碑

元久保東郷土民芸資料館と阿字観弘法大師寺前

阿字観弘法大師寺前
阿字観弘法大師寺前
元久保東郷土民芸資料館
元久保東郷土民芸資料館

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