ついに発見、宍甘氏の墓碑、五輪塔

はじめに

宍甘(しじかい)氏一族の末裔で先祖捜しをしている倉敷市在住の宍甘(ししかい)さんからの問い合わせがきっかけで、宍甘氏の墓碑の実在を探索する活動が始まりました。
宍甘氏一族とは、岡山県上道郡古都村宍甘(現岡山市東区宍甘)出身の豪族で、山王山の南端に宍甘城を築いた一族のことです。
宍甘氏の墓碑とは、西大寺愛郷会が昭和49年に刊行した「西大寺の城跡」の宍甘城および岡山県上道郡古都村史の宍甘氏に記述のある五輪塔のことです。
その宍甘氏の墓碑、五輪塔の所在は、地元住民の聞合せ等により、おおよそ掴みかけており、すぐに見つけることができるだろうと考えていましたが、二度の踏破では竹藪に阻まれ、実在を確かめる事が出来ませんでした。
その後、岡山市東区役所地域振興課の御尽力もあり、2015年12月13日、地元、古都学区電子町内会のみなさんのご協力を得て、ついに見つけることができました。

「すべては一編の詩からはじまった」

宍甘(しじかい)氏一族の末裔で先祖捜しをしている倉敷市在住の宍甘(ししかい)さんより、このたびの宍甘氏の墓碑探索記を 「すべては一編の詩からはじまった」と題して投稿をいただきましたので、掲載します。

「西大寺の城跡」の宍甘城

標高64m9の山王山の南部に、4~5世紀に造られた前方後円の古墳と、その周辺に6箇の古墳群がある。
その南寄り、現在新幹線が貫通しているトンネルの上方(標高64m9)に、この城があった。
明治43年岡山県下で陸軍大演習が挙行された時、明治天皇が演習統監の地である御野立所をここに設けられた所でもある。
今は城跡らしきものは全然ないが、この城は、室町時代の文亀3年(1503)頃には、豪族宍甘氏が既に築造していたらしいから、古都地区三城の中では、最も古いと思える。
今残る宍甘という地名も、その姓をとったのかも知れない。
宍甘氏は、最初金川の松田氏に属していたが、のち浦上氏の家臣となり、直家が沼城に入ってからは、直家に従った。
したがって、前述のように、松田氏と浦上氏の争い、三村氏と宇喜多氏の争いのときには、この城が利用され、特に直家の明禅寺合戦の時には、直家がその緒戦に不利なときは、ここへ退き、陣容を整え、策戦を練り直して、出陣した意義ある拠点であった。
宍甘氏は、その間、家臣として働いた。
天正元年(1573)直家が岡山城へ入ってからも、宍甘氏は直家を助け、同9年8月、児島の八浜で、宇喜多勢が毛利勢と戦ったときは、宍甘氏の一族、宍甘太郎兵衛が参加し、他の勇士6人と共に、奮戦して戦を有利に転回した。世にこの7人を八浜の七本槍といった。
宍甘氏は、直家の死後も、秀家の家臣となり、岡山城の周辺にできた武家屋敷に移住したらしい。
宇喜多家分限帳という秀家の家臣の名簿には、下の通り宍甘氏数人の名がみえる。

名前 石高
宍甘太郎右衛門 1,620石
宍甘太郎兵衛 1,200石
宍甘弥平次 40石
宍甘弥平太 40石
宍甘弥左衛門 110石
宍甘惣太郎 40石

しかし慶長5年(1600)関ヶ原の戦に、西軍に属した宇喜多秀家は破れ家臣は四散した。宍甘一族も浪人して散り散りになったが、誰かが故郷に復帰した者もあろうし、宍甘治右衛門はその一人であったと考えられる。
「和気絹」に「宍甘太郎兵衛の屋敷は宍甘村にあり。宇喜多の家臣。知行1,200石。戸川家の臣となる。」とある。
「吉備温故秘録」には「宍甘村に宍甘太郎兵衛宅地跡あり」と「藤井村に中山備中守の墓あり」とだけしか記されていない。
宍甘氏の先祖を考察すると、宍甘三郎左衛門は天正10年3月8日死去。治右衛門は慶長5年の関ヶ原の合戦後、帰農し、故郷で古庵と称し、池田家の藩臣となった。
一行は、山王山の山裾を西北に沿って廻り、宍甘氏の墓地を訪ねた。大きな五輪塔に「経」と刻んであった。
もう一つ中央の五輪塔は、没後の彫ってある墓石の中では一番古く、元禄7年甲戌年12月17日口屋喜寿仙庵主覚(宍甘宗仙墓)とあった。医師として二代目で、この人も藩医をつとめた。その他数墓があった。
<西大寺の城跡より転載>

岡山県上道郡古都村史 宍甘氏

宍甘氏の史実の詳しいことは分からないが、天文、永禄、元亀、天正の戦国の世に活躍した宍甘出身の豪族で、出身地をその氏としていたらしい。
山王山の南端に宍甘城を築いていた。宍甘氏は当時備前を支配していた浦上家に臣従していたが、宇喜多直家の擡頭と共に宇喜多氏につくようになったと考えられる。
天正九年八月、宇喜多勢と毛利勢が児島の八浜で戦闘したが、宍甘氏の一族、宍甘太郎兵衛は参加した。
宇喜多勢が苦戦に陥った時、宍甘太郎兵衛は他の勇士六人と共に奮戦して味方の頽勢を有利に導いた。この七人の勇士は八浜の七本槍と称せられた。
宍甘氏は宇喜多直家の家臣として大いに活躍したが、直家の死後も秀家の家臣となった。恐らく宍甘氏は岡山の城下町にできた武家屋敷に移り住んだと考えられる。
(中略)
一族の中には千石以上のものが二人もおり、宍甘氏は宇喜多家の中に於いて相当の地位を占めていたと言えよう。
しかし慶長五年関ヶ原の戦の結果、宇喜多家は滅亡し、すべての家臣は離散するに至った。
宍甘一族も皆浪人したと考えられ、そのうちの何人かが、旧慣の地、宍甘に帰住したものもあったろう。宍甘治右衛門はその一人であったといえよう。(宍甘氏奉公書)
宍甘古庵は浪人後医者となり、岡山城下に居住していたが、古庵の子息宗仙は延宝三年池田家に召出されて御殿医となった。
宗仙は拾人扶持を給付されるようになった。宗仙は参勤交代の際は度々主君の共に江戸にのぼり侍医としての役目をはたした。彼は元禄七年十二月一七日病死した。(宍甘氏奉公書)
宍甘の山王山の南麗に写真(転載は省略)に見られるような大きな五輪の墓が現存しているが、墓碑名には宍甘宗仙 元禄七年十二月一七日没とあり、奉公書の記事と全く一致する。
宍甘宗仙は当時岡山城下の屋敷に居住していたが、先祖代々の墓所のある所に骨を埋葬したと考えられる。
(後略)
<岡山県上道郡古都村史 宍甘氏より転載>

宍甘氏の墓碑、五輪塔

墓碑群の中で一番大きい宍甘宗仙の五輪塔

墓碑群の中で一番大きい宍甘宗仙の五輪塔

上から、五輪塔特有の、空、風、火、水、地という字が読める。
地という方形の部分に、刻字が認められるが、風化が烈しく、判読は難しい。しかし、資料から類推すると、下記のように読める。
正面の右側には[元禄七年甲戌]、中央には[地 口屋喜寿仙庵主覚]、左側には[十二月十七日]、側面には[宍甘宗仙墓]

宍甘與三左衛門の墓

宍甘與三左衛門の墓

宍甘家の先祖と思われる。古都村史 宍甘氏によれば、天正十(1582)年三月八日死去とある。 備前沼城に関連記事があったので、転載する。
天文末年(1554年ごろ)になると、幕府から備前守護職に任命された尼子晴久が何度も備前国侵攻を企てた。
尼子氏への対応をめぐって、浦上政宗・宗景の兄弟は意見が対立、政宗は尼子方に味方し、宗景は反尼子氏を貫いて 天神山城(岡山県佐伯町)に立て籠もった(畑和良氏「浦上宗景権力の形成過程」)。
浦上兄弟の分裂を受け、備前の領主層も両派に分かれた。中山備中守は宗景に馳せ参じたらしく、沼城は政宗を支援する尼子晴久の攻撃にさらされることになった。
年未詳八月十二日付けの浦上宗景感状(池木氏所蔵文書)によれば、宍甘与三左衛門尉が沼城に入城し、「雲州衆」相手に奮戦したことがわかる。
浦上政宗の支配地は砂川の上流鳥取庄(山陽町・赤坂町付近)と下流一帯(岡山市西大寺付近)に分布しており、両者を分断する位置にある宗景方の沼城は、 何としても攻略しなくてはならない要害だった。

 

コメントを残す