愛郷会発行図書「西大寺」の表紙を語る

発行図書「西大寺」の表紙のふるきをたずねます。

第1号 西大寺観音院:桜田昌郎氏のスケッチ画

作者の桜田昌郎氏は岡山市東区上阿知在住の人。
作品の年代は不祥。向州公園から望む観音院の風景。
西大寺は、岡山県岡山市東区西大寺にある寺。
山号は金陵山。本坊は観音院。観音院は高野山真言宗別格本山の寺院。本尊は千手観世音菩薩。
日本三大奇祭のひとつとも言われる、会陽(えよう、裸祭り)が有名である。
寺伝によれば、751年(天平勝宝3年)、周防国玖珂庄(現在の山口県岩国市玖珂町)に住んでいた藤原皆足姫が金岡郷(現在の岡山市東区西大寺金岡付近)に観音像を安置したことに始まり、777年(宝亀8年)安隆が現在地に堂宇を建立したとされる。
元々は犀の角を戴き鎮めた地に建立したことから、「犀戴寺(さいだいじ)」と称したが、後に後鳥羽上皇の祈願文から「西大寺」に改称したとされる。
1507年(永正4年)の『金陵山古本縁起』によれば、1299年(正安元年)に堂宇を消失した記録のなかに、本堂、常行堂、三重塔、鐘楼、経蔵、仁王門等を構えていたことが記されており、すでに地方屈指の大寺であったものとみられる。
(参考)ウィキペディア 西大寺

第2号 大正時代の西大寺港

山陽線もまだ通じなかった昔の西大寺港は、兵庫から下関に至る間で屈指の港として岡山よりもずっと賑わいを極めていた。
岡山は川口に竹島・鳩島があり、川もまた浅くて船が入りにくく、かつ問屋の商いも小さく、自ら西大寺港に入ったものである。
永安橋もかかっていなかった明治初年の西大寺港は、現在の位置より上手で、ちょうど永安橋の辺から稲荷の付近までが浜手であった。
ここから下は桑畑もあった原で、雄神川神社の処に魚浜があった。
石門から下手には源古の家(現在川崎明彦氏宅)があっただけで、浜一帯はすべて砂場であった。
井筒屋の場所にせの倉庫?があり、その西に備前の家老伊木長門が遊びにきたとき乗る船をしまって置くお船倉があった。塩問屋あめやが管理していた。
(参考)
『西大寺物語 都紀の郷』昭和51年 8月発行
「往時の西大寺港」

第3号 高瀬舟(大倉光亮氏提供)

古くから吉井川の津山・西大寺間30里を上り下りしながら、貨客を輸送するに使われたのが高瀬舟である。
吉井川の高瀬舟は、大きさが幅8尺3寸(2.5m)、長さ25尺2寸(7.6m)、深さ3尺2寸(1.0m)が標準とされ、中央に白帆をかける帆柱を立てる穴があった。
特に舳先から1間くらいを隔てたところに、直径3寸くらいの穴があって、それに丸棒を通してあり、井手(井堰)の側など、急流を登る時には、それに細く丈夫な綱をつけて、ギュンギュンと反動をつけて両方から引っ張る。
大体上流30石積、下流50石積といわれた。重い物は舷にかけて両側に積んだ。
歴史的には室町時代にすでに西大寺から吉井川中流まで通じており、京都の高瀬舟のモデルになったと伝えられている。
(参考)西大寺町誌 水運(高瀬舟と港)

第4号 西大寺公会堂

大正6年(1917)11月に竣工したもので建築面積1,511平方メートル、木造2階建て寄棟造、下見板張りでバロック風の
様式をもった典型的な擬洋風建築であった。
西大寺公会堂、町役場、税務署として使用され、昭和18年に増改築されていたが、昭和44年12月、西大寺市民
会館新築のため取り壊してしまった。(参考))岡山文庫:岡山の明治洋風建築
昭和26年西大寺町勢要覧の地図によると場所は現在の今町にあり、青木旅館(現在の風月青木)の北側にあった。
写真の左が公会堂、右が町役場・税務署
このような、貴重な歴史遺産がいとも簡単に取り壊されてしまったことは残念でしかたがない。

時期 記事
1889年(明治22年)6月1日 西大寺村発足
1896年(明治29年)2月26日 西大寺町に
1953年(昭和28年)2月1日 西大寺市に
1969年(昭和44年)2月18日 岡山市に

第5号 西大寺文化資料館:木村喬生氏のスケッチ画

作者の木村喬生氏は瀬戸内市邑久町大窪在住の人。
西川に架かる元町橋のたもとから望む西大寺文化資料館の風景。
作品の年代は不祥だが、西大寺文化資料館の立て看板と説明文モニュメントが見当たらない。
ちなみに説明文モニュメントは平成7年3年設置である。

第6号 西川の藻引き(現赤穂線駅前通)

西川は灌漑用に作られた用水で、吉井川の鴨越堰から取水し雄神から西大寺の市街地を還流し九蟠付近からは八番用水などに分流し、児島湾に注いでいます。
1672(寛文12)年に西大寺村及び金田新田の灌漑用水と
して完成し元禄年間の沖新田干拓に伴い現在のように延長されました。
西川には藻がたくさん生えていて、夏になると伸び、流れが悪くなるので、田植え前には下流の新田地方の農夫の人達が出て、川の中を並んで歩きながら藻を引いてゆく。
この写真は舟のともに鎌を取り付けた小舟が川を上下して、鎌の音を立てながら藻を刈ってゆく様子と思われる。
(参考)西川に架かる12橋を巡る
「西大寺 第9号」西川情緒(晩舟生氏)
haveToBeCorrected西川沿いの風景

第7号 開通当時の西大寺軽便(観音寺駅)

岡山市の西大寺市駅から後楽園駅を結んでいた路線です。
西大寺の町と山陽本線や岡山市街地を結ぶ目的で、1911(明治44)年から1915(大正4)年にかけて、当初は西大寺軌道の名で開業しました。
後楽園駅から旭川の対岸に渡れば、岡山電気軌道番町線(1912(明治45)年開業、1968(昭和43)年廃止)に乗り換えることができました。
末期まで経営状態は良好でしたが、国鉄赤穂線伊部~東岡山間の開通に伴い、同線との競合を避けるため、1962(昭和37) 年に廃止されました。
(参考)岡山県教育委員会発行冊子「おおかやまの鉄道遺産をたどる」
西大寺鉄道
●駅名(交差地)
●後楽園●森下●原尾島(百間川)●藤原●大師(東岡山)●財田(JR山陽本線)●長利(庄内川)●大多羅●広谷(砂川)●観音寺(西大寺町→西大寺市)駅
西大寺鉄道1960年代

第8号 金山山麓の忠魂碑

明治37・8年の日露戦役に、当町始め、上道郡から従軍した将兵は、千余人であったが、そのうち、90人の戦病死者があった。
そこで、時の県知事檜垣直右、郡長石川正夫、警察署長那須柯等は郡内の有志に図って、その戦功を表彰し、英霊を慰めるため、忠魂碑を建設することを決めた。
場所は当町内浜手に定めて、明治40年10月29日竣工し、大正4年まで毎年招魂祭を執行した。
しかし敷地を転換する必要が生じ、大正5年金山の西隅に工事を竣成して移転し、毎年5月5日盛大な軍祭が執行された。
金山の忠魂碑は、緑の松を背景として、花崗岩の石垣の奥深く、金色の尖碑が美しく光っていた。
しかし、太平洋戦争後の昭和26年、軍国主義を一掃するため、軍国主義を象徴するようなものはことごとく取り除かれることになり、この忠魂碑も取り壊されてしまった。
(参考)西大寺町誌 日露戦役忠魂碑

第9号 会陽(昭和12年2月24日)

前年の昭和11年の政治面では、2.26事件が発生し、翌年には日中戦争(日華事変)が勃発する。
経済面では、ガソリン不足で、木炭と薪で走る木炭車の生産が始まった。
社会面では、結核(亡国病)流行、東京で青酸カリ自殺が流行、交通事故増加と暗いニュースが並ぶ。
また、救急電話を119番に決定、警視庁、赤バイから白バイに変更した年であった。
そんな昭和12年の会陽は何を祈って宝木の争奪をしたのだろうか。
ちなみに、この年の祝い主と福男は、次の通りであった。(敬称略)
①祝主 西崎馬次(岡山市森下町 土木請負業)
①福男 中川周吾(岡山市森下町 理髪店24歳)
②祝主 池上菊蔵(吉備郡総社町 素麺製造業)
③福男 永井栄(都窪郡茶屋町 正織(株)37歳)
(金陵山 西大寺からの情報提供)
(参考)昭和11.12年の出来事
haveToBeCorrected会陽の写真集

第10号 永安橋(大正6年9月竣工)

永安橋は西大寺の象徴であり、西大寺に住む者にとっては、吉井川の清流と観音院の大屋根、大きな弧を描いた永安橋(3代)が三位一体となって頭に焼き付けられた風景である。以下に歴史・変遷を記す。
「西大寺第12号」永安橋の歴史より

時期 記事
明治12(1879)年1月 永安橋(初代)が完成
明治25(1892)年7月 永安橋流失
明治26(1893)年10月 永安橋流失
明治39(1905)年9月 永安橋流失
大正5(1916)年6月 永安橋流失
大正6(1917)年9月 県営木橋が完工*当写真が当時のもの
大正7(1918)年7月 永安橋流失
大正9(1918)年7月 永安橋トラス型木橋(2代)が完工
昭和7(1932)年7月 永安橋(3代)鉄橋が完成
昭和61(1986)年3月 現在の永安橋(4代、新永安橋とも)が完成。旧橋は廃止となった。

永安橋 歴史記念碑除幕式

第11号 西大寺開帳祝いの石門(大正12年)

西大寺軽便、西大寺駅前に造られた西大寺観音院の石門を模した飾りの門。
石門は文政2年(1819年)に建立。寺伝によって竜宮の形に造られたもので門の下半分が石で造ってあるので石門と呼ばれています。
金陵山西大寺(観音院)の本堂には、御本尊として、皆足媛が長谷の観音様の化身の仏師に造っていただいたとされる千手観音像が安置されています。
ご開帳は、三十三年に一度行われます。
不思議な事に前回平成7年の1995年に御開帳しているので、それからマイナス33をしていくと、大正12年の1923年にぶち当たるはずなのですが、1995年⇒1962年(昭和37年)⇒1929年(昭和4年)⇒1896年(明治29年)と当たらないのです。
これには何かの意図があって御開帳されたものだと思いますが、住職曰く明治29年に御開帳するべきところを遅らせて、何かの修復落慶に合わせたと聞いております。
しかし、その当時何を修復して、どうなったのかという詳細な資料はありません。(観音院副住職談)

第12号 製紙原料を運ぶ馬力(昭和38年7月)於山陽板紙KK前

山陽板紙工業(株)は1952(昭和27)年に設立された板紙メーカー。
土産・贈答用品などのパッケージに使用される紙器原紙の製造を行っていた。
主な製紙原料は木材と古紙だ。
この写真は古紙を馬車で運んでいる様子を撮ったものだ。
馬に引かせる荷車の事を馬力と言っていたようだ。
馬の代わりに牛に引かせることもあったようだ。
西川昭五の詩集「やきものの詩」の十二支 午馬 (二)に下記の記述がある。
「馬力と言う荷車をご存じだろうか?金輪をはめた大小四つの木車の上に長い台を載せて馬に引かせる荷車のことを」

第13号 西大寺尋常高等小学校(大正11年3月)

西大寺尋常高等小学校の変遷を以下に記す。

時期 記事
明治4年5月 明倫館設置
明治9年5月 犀載小学校と改称
明治19年4月 西大寺小学校外10カ所村組合立尋常都紀小学校と改称し,新堀に校舎建築
明治22年4月 西大寺村立犀載小学校と改称
明治32年4月 高等科を併置し,西大寺尋常高等小学校と改称
明治33年4月 校地を金山に移し11月校舎改築落成
昭和16年4月 国民学校令により西大寺第一国民学校と改称
昭和18年4月 西大寺第二国民学校を合わせ西大寺国民学校と改称し芳野分校を設置
昭和22年4月 学制改革により上道郡西大寺町立西大寺小学校と改称
昭和28年2月 市制実施により西大寺市立西大寺小学校と改称

第14号 西大寺軽便鉄道 西大寺町駅

開業時(明治44 (1911) 年12月)は観音駅と呼ばれていましたが、大正3 (1914) 年7月に西大寺町駅に改称、昭和28 (1953) 年2月には西大寺市駅に改称されました。
この写真は大正3年から昭和28年の間のものということになります。
西大寺鉄道(さいだいじてつどう)は、かつて岡山県岡山市と西大寺市(現在は岡山市に合併され岡山市東区)の間を結んでいた鉄道路線、およびその運営会社でした。
914mmという特殊軌間を用いた鉄軌道の中でも最後に残った路線として知られる。「西鉄」(さいてつ)と略称され、地元民には「けえべん」の愛称で親しまれていました。
岡山 – 西大寺間に存在する大河である百間川(旭川放水路)の渡河については橋梁を架設せず、堤防に切り通し(陸閘=りっこう)を設けて横断する大胆な形態を取っていたそうです。
*陸閘(りっこう、りくこう)とは、河川等の堤防を通常時は生活のため通行出来るよう途切れさせてあり、増水時にはそれをゲート等により塞いで暫定的に堤防の役割を果たす目的で設置された施設。

第15号 悠紀田の田植(昭和17年7月20日郡農会施行)

悠紀田(ゆきでん)は悠紀の神饌とする穀物を作る田をいい、悠紀とは「斎(ゆ)酒(き)」で、神聖な酒の意。対語として主基田(すきでん)があります。
新嘗祭(にいなめさい)は毎年11月に、天皇が行う収穫祭で、その年の新穀を天皇が神に捧げ、天皇自らも食す祭儀です。
この新嘗祭に、宮中で神々にお供えする新穀は、明治25年以来地方農民より献納することとなっているので、岡山県においては、毎年1月4日の御用始めに抽選でそれを行う郡をきめることにしていた。昭和17年には上道郡がこの栄光に浴することになり、斎田稲は平島村と西大寺町に、粟は雄神村と操陽村の田と決まった。
献納者は平島村藤原清一、西大寺町中野南農事実行組合代表小坂嵩、雄神村松岡芳男、操陽村黒崎五郎次の四氏が選任された。
写真は西大寺中野南農事実行組合代表小坂嵩さん所有の田植風景。神職が見守る中、郡内各町村より選任された田士が代掻きをし、早乙女が待機している様子が見えます。
(参考)西大寺16号 新嘗祭御献穀斎田について

第16号 昭和天皇御即位祝賀仮装(河本町)

天皇即位の奉祝に沸く
聖上天津日嗣の御位につかせ給う今日、慶福の念全国津々浦々に漲り渡り、岡山地方は早朝から打ち上げも煙火が奉祝気分をいやが上にも高め、昨夜までにありったけの努力を費やして飾りつけを終わった全市は赤、青、黄色と様々な装いに絢爛目もさめるような姿を現出し、その間を紋服礼装の人達が東に西に通りすぎる。
市内の各工場は今日一日業務を休んでお祝い申し、各商店も今日ばかりは休みのところが多い。
かくて午後3時、中島磧で打ち揚げられた煙火を合図に各工場、学校、寺院の汽笛、鐘が一斉に鳴り響き、官庁、学校、会社、工場では一斉に各式場で礼拝をおごそかに行い、万歳を三唱して各祝宴を開いた。
(昭和3年11月11日の新聞記事)
河本町での仮装行列は、昭和天皇御即位の祝賀行事の一環で行われた様子を今に伝える貴重な写真です。
(参考) 「新聞記事と写真で見る世相おかやま」

第17号 備前西大寺の遠望 (明治40年頃)

吉井川からの遠望で、絵葉書として発行されたものと思われる。
垢離取場に海水が流入していた様子が見える。
西大寺観音院の主な境内建築物は次の通り
本堂:文久3年(1863)に再建された。
三重塔:延宝6年(1678)建立で寺内最古の建造物。
高祖堂:安永9年(1780)に建立。
仁王門:元文5年(1740)に再建された楼門。
石門:垢離取場にかかる竜鐘楼で文政2年(1819)に完成した。
鐘楼門:高祖堂と同じ頃に建立。
牛玉所殿:明治13年(1880)再建
垢離取場:会陽裸祭りのとき、熱気で火照った身体を水の張られたこの垢離取場で浄めます。
詳しくは「西大寺観音院 境内のご案内」

第18号 元邑久・上道郡役所 現赤穂線西大寺駅前通り

西大寺町誌によると
上道郡は明治27年4月から同33年まで邑久郡と共に、邑久上道郡役所の管轄とし、役所も西大寺村に置いた。
同年4月から再び上道郡役所となったが、大正14年に廃止された。
以前は直接岡山県の所轄であったが、昭和17年7月1日から邑久上道地方事務所が設置されて、邑久郡・上道郡を監督することとなったと記されており、川崎町にあったとある。
表紙の写真の年代が不祥のため、元邑久・上道郡役所なのか、邑久上道地方事務所なのかは定かではない。
いずれにしても、場所が川崎町で現在の昭和被服(株)の東側にあったということは確かなようだ。
(参考) 西大寺町誌 P55,58

臨時特別号 西大寺中野本町荒神社御当夜

法印が矢を放つ直前、鬼の的で伏せて農作の豊凶を卜う行事
(昭和13年 青江藤七氏宅の写真)
御当夜のいわれ
三百年程前、中野地区まだ海岸であった頃、なまたま正月28日、中野村の漁師数十人が阿津村の沖で漁をしていたところ、暴風となり船が転覆しそうになった。
人々は三宝荒神を必死に祈ったところ、空が晴れ無事に村に帰ることができた。
そこで、田1反5畝を寄進し、その収納米で8斗入りの瓶に酒を造り、村中担ぎ回って村人に飲ませて三宝荒神の徳をたたえたのが始まり。
以降、中野地区のお祭りになっています。(上道郡誌、西大寺町誌より)
もうひとつのいわれは、次の資料に詳しく記されているので参照されたい。
備前西大寺の祭「オマット供養」の考察
「西大寺物語 都紀の郷」にお当夜(オマット)の記事あり。

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