淡島大明神(普門院境内)

せえでえじ神社巡り:淡島大明神(普門院境内)

普門院の本尊は虚空蔵菩薩でありますが、その鎮守として淡島様が祀られています。

普門院境内の淡島大明神
普門院境内の淡島大明神

副住職の鷲峯氏(55歳)にお聞きすると「7月12日には夏祭りを行っています。淡島様は婦人病などに特にお陰があり、ご婦人のお参りが多くあります」とのことでした。

近所の国光和江さん(76歳)がお手伝い

どのようなお祭りをしているのかご近所で良くお手伝いをなさっている国光和江氏(76歳)にお聞きすると、「昔は縁日なども出ていましたが、今は普門院さんのお接待だけで行われています。お接待は素麺をお出ししたり、子供たちには金魚すくいやヨーヨーすくいなども無料で行われています。主人が健康な頃は拝まれる時、太鼓を打つお手伝いなどもしておりましたが、今はそれはやっておりません。曜日に関係なく7月12日に決まって行なわれていて女性から男性の方まで大勢お参りにこられます」と教えて下さいました。

淡島明神は安産、子授け、裁縫の上達、人形供養など女性に

由来については「寛延のころ(1748年から1751年)紀州加太神社からご分身を頂きお祀りしたと伝えられています。
淡島明神は婦人病治療を始め、安産、子授け、裁縫の上達、人形供養など女性に関するあらゆることに霊験のある神とされています。江戸時代に淡島願人と呼ばれる人々が淡島神の人形を祀った厨子を背負い、淡島明神の神徳を説いて廻ったことから信仰が全国に広がったといわれています。寛延の頃というと9代将軍徳川家重の時代です。家重は8代将軍吉宗の長男です。淡島大明神威光倍増の功徳により息災延命諸悪退散福徳寿楽家内安全等の霊験あらたかにし、特に婦女子の諸願を満たして諸病を治し夫婦円満、子宝を与え、安胎安産を願う風潮が盛んであったのでしょう。西大寺の歴史が古いことがひしひしと感じられます。

普門院の正門
普門院の正門

★<じぃじ ばぁばのひとりごと>

じぃじ「わしぁ 淡島様はお参りしたことがなかったんじゃあ。今年はお参りしてみてえな」
ばぁば「母から聞いた話じゃけど、淡島様は安産祈願などあらたかで良くお参りしたそうじゃあ。服を重ね着して古着をぶら下げて歩いていると『淡島さんのようじゃ』といったんじゃあてえ。どこの部落も淡島様をお迎えしてお祀りしているところが多いんじゃて」

余談ですが境内には芭蕉の碑が建っています。

「さまざまの ことおもい出す 桜かな」

さまざまの ことおもい出す 桜かな
さまざまの ことおもい出す 桜かな
さまざまの ことおもい出す 桜かな
句の部分拡大:さまざまの ことおもい出す 桜かな

西大寺には芭蕉の句がふたつ建立されています。ひとつは西大寺鴨越の水源地にたっています。もうひとつが普門院の境内に建っています。この句は元禄元年(1688)に詠まれたものだそうで、西大寺連中が天保14年(1843)芭蕉150回忌に普門院境内に桜塚を建てたと「吉備俳諧略史」にあるそうですが、正確なところは不詳です。西大寺には俳句熱が盛んだったと思われます。

地蔵坂のお地蔵様(掛之町)

せえでえじ神社巡り:地蔵坂のお地蔵様(掛之町)

地蔵坂と呼ばれているお地蔵様は地蔵堂もあります。

地蔵堂もある

堂内部(普段は閉まっています)せえでえじ神社巡り:地蔵坂のお地蔵様(掛之町)
地蔵坂のお地蔵様(掛之町)堂内部(普段は閉まっています)
地蔵坂のお地蔵様(掛之町)
地蔵坂のお地蔵様(掛之町):普段、柵は閉まっています。お願いして開けていただきました。

掛之町4班 班長・徳田公裕氏(77歳)が代表で管理

掛之町4班 班長の徳田公裕氏(77歳)が代表で管理しています。お当番でお掃除もしています。この地で生まれ育った徳田氏ですが途中別の場所に住んでいて20数年前に実家へ帰りました。「若いころは仕事も忙しくあまり興味がなかったので由来などわかりません」とおっしゃっていました。

地蔵坂というのは地蔵菩薩のそばにある坂という意味

土地が普門院様のものだというので普門院の副住職の鷲峯氏(55歳)にお尋ねしました。
「土地は普門院のものでもあの地蔵堂は部落のものなのです」「由来はわかりませんが、お地蔵さんは地蔵菩薩様で子供の守り神さまです。あのあたり一帯は以前は普門院と円満院の土地でしたが、今は道路も出来て普門院のものではありません。地蔵坂というのは地蔵菩薩のそばにある坂という意味だと思います。地蔵さんが建立されているので地蔵坂と思っていませんか」とおっしゃっていました。

★〈ばぁばの独り言〉

ばぁば「お地蔵さんは一番身近な仏さまじゃあ。地蔵坂はいつも通らせてもらっているんできれいにしてくれてるんで、ほっとするんよ」

日限のお地蔵様(渡場町)

せえでえじ神社巡り:日限のお地蔵様(渡場町)

西川沿いの細い道は桜の並木道としてウォーキングをする人たちを楽しませてくれます。ここを訪れた日は3月30日で桜が満開でとてもきれいでした。

日限のお地蔵様(渡場町)
日限のお地蔵様(渡場町)

山田さんが管理

町内会で管理をしているところが多い中、ここは個人で管理しているとお聞きしお尋ねしました。
山田 建氏(77歳)山田和恵氏(75歳)は「ここのお地蔵様は由緒あるお地蔵様で岡山の日限のお地蔵様へここからお灯明がいってます。ですから両参りをするんです。8月23日のお地蔵様の日は幟、提灯をたてます。お参りしてくださる人にお接待を用意しています。近所の人が手伝って下さるのでその人たちにはお弁当を用意しています」
「費用はどこから?」とお聞きすると「年に約5、6万円ですから、我が家で出しています。お賽銭も昔はあったのですが、賽銭泥棒に狙われ、賽銭箱を何度も壊され、それの方が高くつくので、いまでは賽銭箱は蓋のないものを使っています。いくらもありません。生花はみんなが気をつけて供えてくれています」とおっしゃっていました。

満開の桜、みんなで約40年前に植えた

「ここの道は良く通らせて頂くのですが、今は桜が満開できれいですね」とお聞きすると「私等がみんなで約40年前に植えたんよ。今大きうなって、とってもきれいです」とおっしゃっていました。

この場所は車が通る道路からどんと下にあります。上の道路は東区区役所へ行く人や、百花プラザへ行く人たちで交通量が多いんで危ないですが、下にあるこの道は自転車道、散歩道として重宝されています。

お地蔵さんの日は西方寺(広谷)の国本住職が祈祷

8月23日のお地蔵さんの日は広谷の西方寺の国本住職さんに来て頂き拝んで頂いているというので同住職にお聞きしました。「あそこのお地蔵様は西方寺がずっと行かせて頂いています。いつ頃かというのはわかりませんが、先代が祈祷しておりまして、私の代になって40数年になります」とおっしゃっていました。お灯明のことをお聞きしましたがそれは知らないとのことでした。

★〈じぃじ ばぁばの独り言〉

ばぁば「日限のお地蔵様より古いといゆんで調べてみたんじゃあ。びっくりしたなあ。天正年間(1573年から1592年)岡山城を築いた宇喜多氏の開基により西大寺に建立されたとあったんじゃあ。1600年関ヶ原の戦いの後、小早川秀秋氏が岡山城に入る時、現在の岡山の表町の大雲寺に移されたんじゃあて。表町の大雲寺は毎月23日には縁日があり露店もたくさん並んで賑やかな有名なお地蔵様じゃあ。最近は少し寂れてお参りもすくねえときいたけどなあ。やっぱしここが、でえれえ古いんじゃあが、ありがたいこっちゃあ。母は信じん深いで大雲寺の日限の地蔵様にはお参りしとったなあ。うちも時どき一緒にお参りした記憶があるなあ」

じぃじ「400年前は岡山より西大寺の方が賑やかで栄えとったから、ここに地蔵さんを建立したのは不思議じゃねえぞ。宇喜多氏は西大寺の出じゃしな」

荒鍬宮の裏手にあるお地蔵様(今町)

せえでえじ神社巡り:お地蔵様(今町、荒鍬宮の裏手)

このお地蔵様もいつ頃、誰が何のために建てたか解っていません。今町町内会できちんと管理をしてくれています。西川沿いなのでやはり子供さんが水死されたのかなと胸が少し痛くなりました。
一心堂の駐車場の入口にあるお地蔵様と一緒に8月23日に利性院の住職さんにお願いして拝んでもらっています。今町町内会は荒鍬宮は普門院様、お地蔵さんは利性院様と昔からの習わしで拝んでもらっているそうです。

荒鍬宮の裏手にあるお地蔵様(今町)
荒鍬宮の裏手にあるお地蔵様(今町)

西崎ご夫婦「一度屋根が壊れたんで直した」

何か手掛かりがある事情を知っている人がいたらと、このお地蔵さんに一番近い家の西崎靴店をお尋ねしました。西崎ご夫婦は92歳と91歳とお元気なお二人で「50数年前にここで開業した時からお地蔵様はあったよ。誰が建立したとかは聞いたことがないなあ。一度屋根が壊れたんで直したけど」とお話くださいました。

★〈じぃじの独り言〉

「誰か知ったひとがいたら、教えてほしいなあ」

一心堂の北側駐車場のお地蔵様(今町)

せえでえじ神社巡り:お地蔵様(今町、一心堂の北側駐車場)

一心堂の北側にある駐車場の入り口にお祀りしているお地蔵様です。

平成11年この場所へ移動

以前は西川の側にありました。川幅を広げたので川の中へ落ちそうになったので、平成11年この場所へ移しました。
今町町内の森美喜男会長(71歳)は「毎年8月23日のお地蔵さんの日には利性院の住職さんに来て頂き拝んで頂いています」と教えてくださいました。

一心堂の北側駐車場のお地蔵様(今町)
一心堂の北側駐車場のお地蔵様(今町)

★〈じぃじ、ばぁばの独り言〉

じぃじ「誰がいつ何のために建てたかぜんぜんわかろんそうじゃあ。子供さんが川で溺れて死んだのかもしれんな。せえで供養で建てたんじゃろうな」

ばぁば「じぃじ きっとそうじゃあ。うちもこころをこめてお地蔵様を拝ましてもろうよ」

荒鍬宮(今町)

せえでえじ神社巡り:荒鍬宮(今町)

荒鍬宮(今町)
荒鍬宮(今町)
荒鍬宮(今町):西大寺側から永安橋を渡る手前の交差点、右手に見える
荒鍬宮(今町):西大寺側から永安橋を渡る手前の交差点、右手に見える

元は西大寺普門坊円満院の鎮守

元は西大寺普門坊円満院(通称普門院)の鎮守でした。明治45年(1912)事情があり今町町内会が管理をすることになりました。祭神は本地将軍地蔵菩薩、三宝荒神 天満大自在天神だそうです。普門院にはこの仏像を描いた宝暦(徳川家重9代将軍1760年ごろ)の掛け軸が保管されているとか。
昔は旧の1月23日に子供会陽が行われていました。地蔵菩薩が子供のための仏様であることから、観音院の大人の会陽にたいして地蔵様の縁日の23日に行われていましたが、昭和30年ごろになくなってしまいました。

会陽の次の土曜日に荒鍬宮のお祭り

今町町内会の森美喜男氏(71歳)は「観音院の会陽の次の土曜日(第4土曜日)に荒鍬宮のお祭りをしています。お祭りを執り行うのは普門院の住職さんです。」と教えてくださいました。
境内の中には今町会館もあり、良い枝ぶりの桜もあって満開の時は楽しませてくれています。
3代目永安橋の西詰交差点のそばなので交通量も多いのですが今町町内会がきちんと管理をして下さっているので安心です。
普門院様と関係が深いので普門院の副住職鷲峯氏(55歳)にお聞きしました。
「元々、江戸時代には普門院と円満院という二つのお寺が並んでありました。明治時代二つが一緒になり普門坊円満院と呼んでおりましたが、円満院の守り神である荒鍬宮を町内会の方へ譲ったと聞いています。荒鍬宮のご本尊さんはお地蔵様で普門院のご本尊さんは虚空蔵様です」と教えて下さいました。色々歴史があるのが興味深くお話をお聞きしました。

★<じぃじとばぁばの独り言>

じいじ「昔はこの荒鍬宮の前の道まで海じゃったと言っとんたが、信じられんようなはなしじゃなあ」
ばあば「お宮なのに普門院の住職さんが執り行うのは不思議じゃなあと思っとったが、由来を調べみて、納得したなあ」

雄神川神社(渡場町)

せえでえじ神社巡り:雄神川神社(渡場町)

西大寺の人々に神武(じんむ)様と親しんで呼ばれています。神社の鳥居の前横には豊国橋の石柱があります。

雄神川神社(渡場町)
雄神川神社(渡場町)。画面て前の道路を右手に行くと吉井川、左手に行くと緑花公園近く

明治12年(1879)有志が国にお願いして建立

明治12年(1879)有志が国にお願いして建立したと言われています。雄神川とは吉井川のことで、神武天皇、孝明天皇、天照大神、大国主命らの祭神にちなんで通称「じんむさま」と呼んでいるそうです。境内は広くきれいにお掃除されていて、境内の右側には正一位稲荷と左側には英霊様が並んでお祀りされています。
豊国は豊臣秀吉公のことです。高松城を攻めているとき、織田信長公が本能寺で明智光秀の謀反に会いました。信長公自滅の報を受けた秀吉は京都へ跳んで帰りました。秀吉の中国大返しといって有名なお話です。この時、この西川を渡り大雁木(吉井川)から舟に乗ったと伝えられています。
これは以前、渡場町の川沿いの「ビューテイサロン くるみ」(現今町町内会長 森美喜男氏(71歳)の家の横に架けられていた豊国橋の石柱をこの地、雄神川神社に移されたということです。
この地を渡場町(南2丁目)というのは秀吉が渡っただろうというところからつけられたといわれています。 “雄神川神社(渡場町)” の続きを読む

邑上(ゆうじょう)稲荷(掛之町)

せえでえじ神社巡り:邑上(ゆうじょう)稲荷(掛之町)

邑上(ゆうじょう)稲荷(掛之町)
邑上(ゆうじょう)稲荷(掛之町)

もとはNTTの側。いきさつは誰もわかりません

もとはNTTの側にあったと伝わっています。どうしてお祀りするようになったんかといういきさつは誰もわかりません。元掛之町町内会長の日出正一氏が聞きにこられましたが、じぃじも答えられなかったです。
永安橋は明治12年(1879)に架けられました。2代目は昭和7年に架け替えをしましたが古くなり、昭和61年新永安橋の架け替え工事を行いました。観音院前の商店街の人たちは猛反対をしましたが、危険なのでその場所より南側に現在の新永安橋が出来ました。2代目の橋を渡ると商店街がありましたが、新永安橋は商店街から外れ、だんだんと寂れてしまいました。
邑上(ゆうじょう)稲荷も新永安橋の橋下に移転されました。

さらに以前は、米穀問屋「阿波久」敷地内にあったと

今はもう昔の永安橋は忘れられ、新永安橋という人もいなくなりました。
この稲荷は元、掛之町(中1丁目)阿波久という米穀問屋の敷地内にあったといわれています。五穀豊穣の神として祀られていたということです。
掛之町内会は六班に分かれていて一班の方々が当番でお掃除をしてお祀りをしています。

現在地は国土交通省の土地。新永安橋の橋下

掛之町町内会長の山崎氏(63歳・和可葉経営者)は町内会長になってこのお稲荷さんのことを少し調査し、土地が国土交通省の物だという事はわかったそうです。町内会の総会で管理のことなど細かい事を決めたいと思っているとおっしゃっていました。

★<ばぁばの独り言>

ばぁば「2代目の永安橋を渡って西大寺高校へ通ったなぁ。橋の上で観音様をバックに写真を撮っているのが印象的じゃあなぁ」

恵比寿宮(本町)

せえでえじ神社巡り:恵比寿宮(本町)

観音院の垢離とり場の西側に恵比寿宮があるのを知っとった?

鳥居前から:恵比寿宮(本町)
鳥居前から:恵比寿宮(本町)
恵比寿宮(本町)
恵比寿宮(本町)

お社は、宝暦10年(1760)ころ兵庫県西宮の戎神社から分祀して建立されました。そのころは、西大寺観音院の前の通りにありました。戎様と大黒様をお祀りしており、西大寺は商人の町なので、商売神様「おえべっさま」と呼ばれて、人々に特別大事にされてきました。境内には樹齢500年という大きい松もあって有名でしたが、松は枯れてしまいました。昭和35年に区画整理で新しい道路がつくられることになり、お社を移動させないといけないようになりました。どこが良いかとみんなで考えて、観音院の垢離とり場の西側に移転されました。観音院とは別ということで管理しています。
以前鎮座されていた本町町内会で結成している氏子が今も大切にお祀りしています。

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はじまりはじまり:せえでえじ(西大寺)神社巡り

せえでえじ(西大寺)神社巡り

皆さん、こんにちは。西大寺には、ぎょうさんの神社やお地蔵さんが祀られとるよなぁ。じぃじ(岡崎 巌・75さい)とばぁば(在本桂子・73さい)は、旧西大寺町内の多くの神社やお地蔵様の、今あるお姿を記録しようと思いついたんよ。一っこずつでもお詣りして書いておこうかな。「へぇ、そうだったん?へぇ、知らんかった」と思っうてもらえるような話が紹介できれば、うちらは嬉しいがな。どうぞよろしゅうにな。それと、これを読んで「あの話はこうだよ。わたしが知っとる話とはちがうなぁ」ということがあれば教えてちょうでぇな。待っとるけん。

写真・文:岡崎 巌、在本桂子

参考文献:岡山市百年史(上巻 下巻)、西大寺市史、西大寺町史、西大寺の祭り(愛郷会編)、西大寺(愛郷会編)西大寺みてある記(岡山市立西大寺公民館発行)等を参考にしています。

次回は、「恵比寿宮」(本町)をご紹介の予定です。おたのしみに。