福寿稲荷神社(新町)

せえでえじ神社巡り:福寿稲荷神社(新町)

 

せえでえじ神社巡り:福寿稲荷神社(新町) 
せえでえじ神社巡り:福寿稲荷神社(新町)
せえでえじ神社巡り:福寿稲荷神社(新町) の古木
せえでえじ神社巡り:福寿稲荷神社(新町) の古木

大きな商売をされていた人の邸内にあったお稲荷さんだそうです。明治時代にこの場所にお祀りしたとかいわれています。詳しくは解りません。
境内には樹齢何百年?と思われる大木があります。お稲荷さんより先にこの木があったと思われます。
松風堂の中村敦氏(92歳)が町内会を代表して26年間管理していました。

柴哲夫氏(73歳)がお世話

3年前から後任の柴哲夫氏(73歳)がお世話をして下さっています。「所有者が良く解らなく、将来を心配しています」と柴さん。
古木ですが枝葉の勢いがあります。

★<じぃじとばぁばの独り言>

じぃじ「あのお稲荷さんには明治からの多くの人の思いがあるんでぇ。たいへんじゃあ。」
ばぁば「幹の太さと樹高がアンバランスにも見えるんじゃ。お稲荷さんの謂われ、誰か知っとる人教えてーーー」

和霊神社(新町)

せえでえじ神社巡り:和霊神社(新町)

和霊神社の本宮は宇和島市和霊町にあります。祭神は、藩主伊達秀宗の家老であった山家(やんべ)清兵衛公頼です。彼は忠誠、剛直の士で主君を補佐して悪政を改革しました。同僚の裏切りにあい、刺客の手にかかって蚊帳の中で暗殺されました。その後、忠臣であることが分かり、秀宗公は清兵衛の霊を和らげるため神社を作りました。それが和霊神社と呼ばれるようになりました。
普通の神社と違って武士個人が祭神となっております。息災延命、子孫繁昌に霊験があるというので、多くの人々から信仰されるようになりました。瀬戸内海地方一般に広まり、各地に分祀されるようになりました。

新町町内会が管理

せえでえじ神社巡り:和霊神社(新町)
せえでえじ神社巡り:和霊神社(新町)

お祀りされるようになった最初の記録は安政2年(1856)3月、との記録が新町に残っています。今の場所に簡略な形で安置したのが大正12年(1923)との記録もあります。
現在も新町町内会が管理しています。同町内会長を26年間務められた松風堂の中村敦氏(92歳)が大切にお世話して下さっていました。現在は柴哲夫氏(73歳)が町内会長として福寿稲荷神社と両方管理して下さっております。

せえでえじ神社巡り:和霊神社(新町)
せえでえじ神社巡り:和霊神社(新町)

柴会長は「例祭は6月23日でしたが現在は7月24、25日直後の土曜日を新町町内会の夏祭りとして行っています。お祭りの日に子供神輿を引き出し、昨年(2017年)は75歳以上の高齢者の方にお土産を配ってもらっています」「和霊神社そばは新町会館です。ここで町内会の総会等行事は行っています」「中村敦氏が町内会長の時代は町内の旅行をかねて和霊神社本宮へお参りしていました。今度みなさんと参拝できればと思っています」と述べられていました。

★<じぃじとばぁばの独り言>

じぃじ「3年前に和霊神社の本宮に参拝したんじゃ。立派なお社じゃったな。社務所で西大寺に分祀した事も年代を調べてもろうたが、解らんかったなあ。宇和島市にある本宮は、町の名前が和霊町じゃったなあ」

ばぁば「和霊様のご祭神が武士個人じゃてえ知らんかったなあ。調べるとおもしれえな」

般若坊(旭町、新光タクシー南)

せえでえじ神社巡り:般若坊(旭町、新光タクシー南)

せえでえじ神社巡り:般若坊(旭町、新光タクシー南)
せえでえじ神社巡り:般若坊(旭町、新光タクシー南)

般若菩薩様をお祀りしています。般若菩薩とは大般若経のご本尊で、智慧の仏様です。皆さん良くお唱えする般若心経ですが、仏様はあまり見たことがありません。五智の宝冠をかぶり、左手に梵篋(ぼんきょう)をのせた開敷(かいふ)蓮華(れんげ)を執り、右手には三鈷(さんこ)を持っているそうです。
普門院の副住職鷲峯氏(55歳)にお聞きすると「よくはわかりませんが、江戸時代にはこの地に般若坊というお寺があって明治時代の廃仏棄釈でなくなり、このような形で残ったのではないかと思われます」とおっしゃっていました。

普門院がお膳をこしらえ、お供えもの

新光タクシーの南側にひっそりと建っています。足が痛いときなどお願いをするとご利益があると信じられています。以前は、石田伊保子氏(86歳)をはじめご近所の皆さんが草取りやお花を生けたりしておりました。
「7月16日のお祭りの日は幕を張り、子供たちにくじ引きでお菓子を配ったりしておりました。ご近所の方も少なくなり、夫も高齢になり幟の竹も建てられなくなっていました。普門院様が『ここは我が家の敷地なので管理をする』とおっしゃり、お祭りには普門院様がお膳をこしらえ、お供えものをしてくださっています」と石田さんがお話しくださいました。

せえでえじ神社巡り:般若坊(旭町、新光タクシー南)
せえでえじ神社巡り:般若坊(旭町、新光タクシー南)

地図(リンク)

★<じぃじとばぁばの独り言>

じぃじ「そんなところに般若様がおられるとはしらなんだなあ。今度お参りしょうかな。梵篋とは法印のひとつ、または梵字の入った箱をさすんじゃて?」

ばぁば「般若菩薩さまといえばありがたい仏様 大切に受けつがんとなぁ」

淡島大明神(普門院境内)

せえでえじ神社巡り:淡島大明神(普門院境内)

普門院の本尊は虚空蔵菩薩でありますが、その鎮守として淡島様が祀られています。

普門院境内の淡島大明神
普門院境内の淡島大明神

副住職の鷲峯氏(55歳)にお聞きすると「7月12日には夏祭りを行っています。淡島様は婦人病などに特にお陰があり、ご婦人のお参りが多くあります」とのことでした。

近所の国光和江さん(76歳)がお手伝い

どのようなお祭りをしているのかご近所で良くお手伝いをなさっている国光和江氏(76歳)にお聞きすると、「昔は縁日なども出ていましたが、今は普門院さんのお接待だけで行われています。お接待は素麺をお出ししたり、子供たちには金魚すくいやヨーヨーすくいなども無料で行われています。主人が健康な頃は拝まれる時、太鼓を打つお手伝いなどもしておりましたが、今はそれはやっておりません。曜日に関係なく7月12日に決まって行なわれていて女性から男性の方まで大勢お参りにこられます」と教えて下さいました。

淡島明神は安産、子授け、裁縫の上達、人形供養など女性に

由来については「寛延のころ(1748年から1751年)紀州加太神社からご分身を頂きお祀りしたと伝えられています。
淡島明神は婦人病治療を始め、安産、子授け、裁縫の上達、人形供養など女性に関するあらゆることに霊験のある神とされています。江戸時代に淡島願人と呼ばれる人々が淡島神の人形を祀った厨子を背負い、淡島明神の神徳を説いて廻ったことから信仰が全国に広がったといわれています。寛延の頃というと9代将軍徳川家重の時代です。家重は8代将軍吉宗の長男です。淡島大明神威光倍増の功徳により息災延命諸悪退散福徳寿楽家内安全等の霊験あらたかにし、特に婦女子の諸願を満たして諸病を治し夫婦円満、子宝を与え、安胎安産を願う風潮が盛んであったのでしょう。西大寺の歴史が古いことがひしひしと感じられます。

普門院の正門
普門院の正門

★<じぃじとばぁばの独り言>

じぃじ「わしぁ 淡島様はお参りしたことがなかったんじゃあ。今年はお参りしてみてえな」
ばぁば「母から聞いた話じゃけど、淡島様は安産祈願などあらたかで良くお参りしたそうじゃあ。服を重ね着して古着をぶら下げて歩いていると『淡島さんのようじゃ』といったんじゃあてえ。どこの部落も淡島様をお迎えしてお祀りしているところが多いんじゃて」

余談ですが境内には芭蕉の碑が建っています。

「さまざまの ことおもい出す 桜かな」

さまざまの ことおもい出す 桜かな
さまざまの ことおもい出す 桜かな
さまざまの ことおもい出す 桜かな
句の部分拡大:さまざまの ことおもい出す 桜かな

西大寺には芭蕉の句がふたつ建立されています。ひとつは西大寺鴨越の水源地にたっています。もうひとつが普門院の境内に建っています。この句は元禄元年(1688)に詠まれたものだそうで、西大寺連中が天保14年(1843)芭蕉150回忌に普門院境内に桜塚を建てたと「吉備俳諧略史」にあるそうですが、正確なところは不詳です。西大寺には俳句熱が盛んだったと思われます。

地蔵坂のお地蔵様(掛之町)

せえでえじ神社巡り:地蔵坂のお地蔵様(掛之町)

地蔵坂と呼ばれているお地蔵様は地蔵堂もあります。

地蔵堂もある

堂内部(普段は閉まっています)せえでえじ神社巡り:地蔵坂のお地蔵様(掛之町)
地蔵坂のお地蔵様(掛之町)堂内部(普段は閉まっています)
地蔵坂のお地蔵様(掛之町)
地蔵坂のお地蔵様(掛之町):普段、柵は閉まっています。お願いして開けていただきました。

掛之町4班 班長・徳田公裕氏(77歳)が代表で管理

掛之町4班 班長の徳田公裕氏(77歳)が代表で管理しています。お当番でお掃除もしています。この地で生まれ育った徳田氏ですが途中別の場所に住んでいて20数年前に実家へ帰りました。「若いころは仕事も忙しくあまり興味がなかったので由来などわかりません」とおっしゃっていました。

地蔵坂というのは地蔵菩薩のそばにある坂という意味

土地が普門院様のものだというので普門院の副住職の鷲峯氏(55歳)にお尋ねしました。
「土地は普門院のものでもあの地蔵堂は部落のものなのです」「由来はわかりませんが、お地蔵さんは地蔵菩薩様で子供の守り神さまです。あのあたり一帯は以前は普門院と円満院の土地でしたが、今は道路も出来て普門院のものではありません。地蔵坂というのは地蔵菩薩のそばにある坂という意味だと思います。地蔵さんが建立されているので地蔵坂と思っていませんか」とおっしゃっていました。

★<ばぁばの独り言>

ばぁば「お地蔵さんは一番身近な仏さまじゃあ。地蔵坂はいつも通らせてもらっているんできれいにしてくれてるんで、ほっとするんよ」

日限のお地蔵様(渡場町)

せえでえじ神社巡り:日限のお地蔵様(渡場町)

西川沿いの細い道は桜の並木道としてウォーキングをする人たちを楽しませてくれます。ここを訪れた日は3月30日で桜が満開でとてもきれいでした。

日限のお地蔵様(渡場町)
日限のお地蔵様(渡場町)

山田さんが管理

町内会で管理をしているところが多い中、ここは個人で管理しているとお聞きしお尋ねしました。
山田 建氏(77歳)山田和恵氏(75歳)は「ここのお地蔵様は由緒あるお地蔵様で岡山の日限のお地蔵様へここからお灯明がいってます。ですから両参りをするんです。8月23日のお地蔵様の日は幟、提灯をたてます。お参りしてくださる人にお接待を用意しています。近所の人が手伝って下さるのでその人たちにはお弁当を用意しています」
「費用はどこから?」とお聞きすると「年に約5、6万円ですから、我が家で出しています。お賽銭も昔はあったのですが、賽銭泥棒に狙われ、賽銭箱を何度も壊され、それの方が高くつくので、いまでは賽銭箱は蓋のないものを使っています。いくらもありません。生花はみんなが気をつけて供えてくれています」とおっしゃっていました。

満開の桜、みんなで約40年前に植えた

「ここの道は良く通らせて頂くのですが、今は桜が満開できれいですね」とお聞きすると「私等がみんなで約40年前に植えたんよ。今大きうなって、とってもきれいです」とおっしゃっていました。

この場所は車が通る道路からどんと下にあります。上の道路は東区区役所へ行く人や、百花プラザへ行く人たちで交通量が多いんで危ないですが、下にあるこの道は自転車道、散歩道として重宝されています。

お地蔵さんの日は西方寺(広谷)の国本住職が祈祷

8月23日のお地蔵さんの日は広谷の西方寺の国本住職さんに来て頂き拝んで頂いているというので同住職にお聞きしました。「あそこのお地蔵様は西方寺がずっと行かせて頂いています。いつ頃かというのはわかりませんが、先代が祈祷しておりまして、私の代になって40数年になります」とおっしゃっていました。お灯明のことをお聞きしましたがそれは知らないとのことでした。

★<じぃじとばぁばの独り言>

ばぁば「日限のお地蔵様より古いといゆんで調べてみたんじゃあ。びっくりしたなあ。天正年間(1573年から1592年)岡山城を築いた宇喜多氏の開基により西大寺に建立されたとあったんじゃあ。1600年関ヶ原の戦いの後、小早川秀秋氏が岡山城に入る時、現在の岡山の表町の大雲寺に移されたんじゃあて。表町の大雲寺は毎月23日には縁日があり露店もたくさん並んで賑やかな有名なお地蔵様じゃあ。最近は少し寂れてお参りもすくねえときいたけどなあ。やっぱしここが、でえれえ古いんじゃあが、ありがたいこっちゃあ。母は信じん深いで大雲寺の日限の地蔵様にはお参りしとったなあ。うちも時どき一緒にお参りした記憶があるなあ」

じぃじ「400年前は岡山より西大寺の方が賑やかで栄えとったから、ここに地蔵さんを建立したのは不思議じゃねえぞ。宇喜多氏は西大寺の出じゃしな」

荒鍬宮の裏手にあるお地蔵様(今町)

せえでえじ神社巡り:お地蔵様(今町、荒鍬宮の裏手)

このお地蔵様もいつ頃、誰が何のために建てたか解っていません。今町町内会できちんと管理をしてくれています。西川沿いなのでやはり子供さんが水死されたのかなと胸が少し痛くなりました。
一心堂の駐車場の入口にあるお地蔵様と一緒に8月23日に利性院の住職さんにお願いして拝んでもらっています。今町町内会は荒鍬宮は普門院様、お地蔵さんは利性院様と昔からの習わしで拝んでもらっているそうです。

荒鍬宮の裏手にあるお地蔵様(今町)
荒鍬宮の裏手にあるお地蔵様(今町)

西崎ご夫婦「一度屋根が壊れたんで直した」

何か手掛かりがある事情を知っている人がいたらと、このお地蔵さんに一番近い家の西崎靴店をお尋ねしました。西崎ご夫婦は92歳と91歳とお元気なお二人で「50数年前にここで開業した時からお地蔵様はあったよ。誰が建立したとかは聞いたことがないなあ。一度屋根が壊れたんで直したけど」とお話くださいました。

★<じぃじの独り言>

「誰か知ったひとがいたら、教えてほしいなあ」

一心堂の北側駐車場のお地蔵様(今町)

せえでえじ神社巡り:お地蔵様(今町、一心堂の北側駐車場)

一心堂の北側にある駐車場の入り口にお祀りしているお地蔵様です。

平成11年この場所へ移動

以前は西川の側にありました。川幅を広げたので川の中へ落ちそうになったので、平成11年この場所へ移しました。
今町町内の森美喜男会長(71歳)は「毎年8月23日のお地蔵さんの日には利性院の住職さんに来て頂き拝んで頂いています」と教えてくださいました。

一心堂の北側駐車場のお地蔵様(今町)
一心堂の北側駐車場のお地蔵様(今町)

★<じぃじとばぁばの独り言>

じぃじ「誰がいつ何のために建てたかぜんぜんわかろんそうじゃあ。子供さんが川で溺れて死んだのかもしれんな。せえで供養で建てたんじゃろうな」

ばぁば「じぃじ きっとそうじゃあ。うちもこころをこめてお地蔵様を拝ましてもろうよ」

荒鍬宮(今町)

せえでえじ神社巡り:荒鍬宮(今町)

荒鍬宮(今町)
荒鍬宮(今町)
荒鍬宮(今町):西大寺側から永安橋を渡る手前の交差点、右手に見える
荒鍬宮(今町):西大寺側から永安橋を渡る手前の交差点、右手に見える

元は西大寺普門坊円満院の鎮守

元は西大寺普門坊円満院(通称普門院)の鎮守でした。明治45年(1912)事情があり今町町内会が管理をすることになりました。祭神は本地将軍地蔵菩薩、三宝荒神 天満大自在天神だそうです。普門院にはこの仏像を描いた宝暦(徳川家重9代将軍1760年ごろ)の掛け軸が保管されているとか。
昔は旧の1月23日に子供会陽が行われていました。地蔵菩薩が子供のための仏様であることから、観音院の大人の会陽にたいして地蔵様の縁日の23日に行われていましたが、昭和30年ごろになくなってしまいました。

会陽の次の土曜日に荒鍬宮のお祭り

今町町内会の森美喜男氏(71歳)は「観音院の会陽の次の土曜日(第4土曜日)に荒鍬宮のお祭りをしています。お祭りを執り行うのは普門院の住職さんです。」と教えてくださいました。
境内の中には今町会館もあり、良い枝ぶりの桜もあって満開の時は楽しませてくれています。
3代目永安橋の西詰交差点のそばなので交通量も多いのですが今町町内会がきちんと管理をして下さっているので安心です。
普門院様と関係が深いので普門院の副住職鷲峯氏(55歳)にお聞きしました。
「元々、江戸時代には普門院と円満院という二つのお寺が並んでありました。明治時代二つが一緒になり普門坊円満院と呼んでおりましたが、円満院の守り神である荒鍬宮を町内会の方へ譲ったと聞いています。荒鍬宮のご本尊さんはお地蔵様で普門院のご本尊さんは虚空蔵様です」と教えて下さいました。色々歴史があるのが興味深くお話をお聞きしました。

★<じぃじとばぁばの独り言>

じいじ「昔はこの荒鍬宮の前の道まで海じゃったと言っとんたが、信じられんようなはなしじゃなあ」
ばあば「お宮なのに普門院の住職さんが執り行うのは不思議じゃなあと思っとったが、由来を調べみて、納得したなあ」

雄神川神社(渡場町)

せえでえじ神社巡り:雄神川神社(渡場町)

西大寺の人々に神武(じんむ)様と親しんで呼ばれています。神社の鳥居の前横には豊国橋の石柱があります。

雄神川神社(渡場町)
雄神川神社(渡場町)。画面て前の道路を右手に行くと吉井川、左手に行くと緑花公園近く

明治12年(1879)有志が国にお願いして建立

明治12年(1879)有志が国にお願いして建立したと言われています。雄神川とは吉井川のことで、神武天皇、孝明天皇、天照大神、大国主命らの祭神にちなんで通称「じんむさま」と呼んでいるそうです。境内は広くきれいにお掃除されていて、境内の右側には正一位稲荷と左側には英霊様が並んでお祀りされています。
豊国は豊臣秀吉公のことです。高松城を攻めているとき、織田信長公が本能寺で明智光秀の謀反に会いました。信長公自滅の報を受けた秀吉は京都へ跳んで帰りました。秀吉の中国大返しといって有名なお話です。この時、この西川を渡り大雁木(吉井川)から舟に乗ったと伝えられています。
これは以前、渡場町の川沿いの「ビューテイサロン くるみ」(現今町町内会長 森美喜男氏(71歳)の家の横に架けられていた豊国橋の石柱をこの地、雄神川神社に移されたということです。
この地を渡場町(南2丁目)というのは秀吉が渡っただろうというところからつけられたといわれています。 “雄神川神社(渡場町)” の続きを読む