東大寺の瓦出土の謎

昭和30年ごろ、吉井川の東岸を多くの浚渫船が掘った。その時、多数の土器とともに東大寺の瓦が上った。
遠い奈良の東大寺の瓦がなぜ西大寺の吉井川の底から出たのか。
その答えは、奈良-万富-西大寺という線で解決します。
奈良の東大寺は752年に建立されますが、1180年の源平の兵乱で、平氏の軍勢が東大寺に火を放って 炎上します。
源頼朝は、その再建を図るべく、俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)を大勧進の職に任命します。
重源は瀬戸町万富に(JR山陽本線万富駅付近)に窯(万富東大寺瓦窯跡)を築き、瓦を焼いた。
その瓦を輸送するために吉井川を下る船が利用されたという訳です。
当時の西大寺は河口に当たるが、吉井川の砂のため川底が浅いので、瀬戸内海を走る大型の船に積み替える必要があった。その作業中に川に落下したものが、約800年もの間、砂の中で眠っていたということです。
瓦には、平瓦と、軒瓦の2種類があり、何れも「東大寺」の文字が刻まれています。
大船に積み込まれた大量の瓦は、瀬戸内海を東に進み、大和側や傷川を経由して奈良の都に到着し、新築された東大寺の屋根にのせられたのです。
(以上は、青江文次著 西大寺物語の「7.東大寺の瓦出土の謎」を要約し転載したものです)

西大寺のミシン

所蔵品の紹介とミシンの歴史

ミシンは、説明するまでもありませんが、「織物(布)、皮、紙などを糸で縫い合わせるのに用いられる機械」です。
1960年代(昭和35~45年)までは手回し式や足踏み式などの人力のミシンが主流でありましたが、近年では、電動になり、電子化、そしてコンピューター搭載へと進化し、キャラクターや複雑な模様まで簡単できれいに縫えるミシンが数多く
開発されています。

西大寺文化資料館では、昔懐かしい手回し式や足踏み式のミシンを所蔵しています。
所蔵品の紹介とともに、ミシンの歴史を振り返り、在りし日の西大寺を思い浮かべてみましょう。

(2017-4-7WEB管理者追記:オリジナルページに含まれる、ブラザー「昭三式環縫ミシン」福助足袋縫い鉄輪ミシン、その他の画像一部に正当な使用権が確立したものか不詳の数点があり、オリジナルページの続きの掲載を見合わせています)

西大寺を二度訪れた伊能忠敬(3)

二度目の西大寺

1.第八次測量 文化8(1811)年11月25日~文化11(1814)年5月25日

江戸出立。この旅を前に忠敬は、家政や事業についての教訓と隠居資産約1100両の分配方法を記した「遺言状《 ともとれる書状を長子景敬あてに書き残している。万一の場合も考えての出発だった。
藤沢から御殿場に出、富士周辺の街道を測量したのち、測量を行わずに裏海道、山陽道を経て、小倉に着く。
小倉からは手分け測量で北九州の内陸部を南下、忠敬組は大口から、坂部組は串木野方面から鹿児島に入る。
山川湊から屋久島に渡る。続いて種子島に移って測量し、鹿児島に帰る。北上して九州内陸部を縦横に測り、
小倉に出る。北海岸沿いに博多、唐津、伊万里から佐賀、久留米と回る。続いて有明海岸を西に進み鹿島、 諌早から島原半島を一周して大村へ。大村湾を手分けして測り、佐世保で越年。
周辺の島々を測量して平戸へ。平戸島と松浦地方、近隣の福島、大島、鷹島、生月島などを測って、壱岐に渡る。
15日間測量したのち対馬へ渡り、53日間対馬全域を測る。平戸に戻り、五島列島に渡り北端の宇久島から測り はじめる。
五島列島の測量には66日かかった。信頼していた副隊長の坂部貞兵衛が福江島で病死。忠敬は悲嘆に暮れる。
長崎着。長崎半島を一周したのち別路を測って小倉に着く。赤間関 (下関) からは、中園地方の内陸部を縦横 に測量しながら帰府の途についた。広島、松江、米子、鳥取、津山、岡山と回り、姫路城下で越年する。
姫路から北上、西脇、生野、福知山、宮津を経て、京都へ。東海道を四日市まで行き、北上して岐阜、大垣、 下呂から高山に出て、古川から反転、野麦峠を越えて木曽谷に入る。
薮原、洗馬から松本に出て善光寺に参拝。さらに飯山城下まで進んでから南下して、須坂、松代、追分、富岡、 大宮、川越を経て、板橋宿に帰着した。旅行日数は914日に及び、伊能隊最長の測量旅行となった。

文化10年12月11日

曇天、備前国津高郡岡山領中牧村枝十谷出立、同所人家下丸十印初、枝湯須、朝日川郡界湯須ノ渡ト云、赤坂郡大鹿村、鍋谷村、(昼休庄屋伝三郎)、枝河瀬、
牟佐村枝大久保、同村内字上分、字下分人家前、別手岡山街道渡場ヨリ川筋ヲ打上残ス㊦印ニ繋終、(街道一里二十八町六間)、
同所ヨリ乗船二里旭川ヲ乗下シ岡山城下江着、両手出会

12月12日

曇晴、六ッ時後両手一同岡山城下下ノ町出立、後手我等、今泉、尾形、箱田、佐助、
岡山市中西中島、京橋、東橋詰ヨリ初、(巳年ノ重測、中嶋橋巾二十四間)、
東中嶋町(小橋二十三間)、小橋町三辻追分迄(重測三町三十間)、此ヨリ西大寺村道新測、字蛇谷、門田村、
(左臨済宗岡山三友寺
真直四町計上ニ東照宮ノ御神廟、別当天台宗東光山少○寺利光院、寺領三百石、
左浄土宗光照山台祟寺円月院、寺領三百石、左一町計引込、玉井宮社領十一石九斗、祭八月二十五日神主佐々木対馬、
左真言宗幣達山大徳院能満寺、寺領五石九斗五升、左五百羅漢道、此ヨリ三町引込)、枝峠(小休伯耆屋儀兵衛)、
湊村(左天台宗瑞光山仏心寺、寺領二十人扶持)、
枝池ノ内円山村、枝四軒屋、山崎村、(倉安川土橋九間、舟往来あり)、字新橋、福泊村、(右四五町畠中ニ沖新田人家あり、
沖新田ハ表一番・三番・四番・五番・六番・七番・九番、
惣日右五町計、裏一番・三番・四番・五番、表ニ属、裏七番ハ一村となり、
倉田・倉益・倉富ヲ合、十一村、三万石、沖新田、山添、円山村ニ臨済宗護国山曹源禅寺
国主ノ菩提寺国印九十九石五斗四升弐合)、海面村、字出村、先手初丸太印ニ繋、一里十町十二間三尺、惣測一里十三町四十二間三尺、(昼休庄屋安太郎)、
それヨリ無測、八ッ時後、西大寺村着、先手永井・門谷・保木・甚七、備前国上道郡岡山領海面村字出村、丸太印初、中川村(悪水川土橋十五間)、枝益野、松崎新田村、
枝小林、広谷村(古川用水土橋六間)、中野村(砂川土橋廿六間)、枝新橋、西大寺村、新町・西町・(一日市通・川端道)追分、
西大寺門前丸西印ニ打止、(街道一里十三町十八間、左ニ真言宗金陵山西大寺、寺領五十七石七升三合)、本堂十一面観音、
坊中六院、(観音院・安楽院・普門院・円満院・千手院・持命院、当寺会陽正月十四日)、此ヨリ掛ノ町、丑年止宿、坂口屋松左衛門、
(此度も同宿)、前測所迄測、(横四十五間)、惣測一里十四町三間、九ッ時頃、西大寺町着、止宿(坂口屋松左衛門・五明屋惣治郎)、
此朝、細川園右衛門・同中書・
谷東平
・瀬尾是輔・妹尾新三郎、坂下外迄送別、此夜曇天三星測、(上道郡草ヶ部村大庄屋井上三郎兵衛・
和気郡香登村、同伊賀安助)・磐梨郡大庄屋(江尻村土井辰治郎・坂根村左近義三郎)・邑久郡大庄屋、(下笠加村森太郎右衛門・新村草井六郎右衛門・大ヶ島村、中山文治郎)出ル

12月13日

曇天、六ッ時後一同備前国上道郡西大寺村出立、後手我等、門谷、保木、尾形、佐助、同所西町西大寺門前丸西印ヨリ初、(西大寺川通、向一日市測)、市場町、福田町、上福田町、
川端、(丑年重測限迄四町五十五間二尺)、原村、(往来地方なし、人家計出ル)、字河本、久保村、左八幡宮、(社領十一石弐斗四升四合、
祭日八月廿三日、神主藤井右兵衛、往来ニ浮田秀家?ト云老松あり)、枝鴨越、鴨越峠、西隆寺村、百枝月村、(枝岡、同中、百枝月、
内ヶ原)村界、先手初丸内印ニ繋(一里十五町四十六間三尺、惣測一里二十町四十一間五尺)、先手永井、今泉、箱田、甚七、(百枝月、内ヶ原村界丸内印初、吉備川筋、津山道測、内ヶ原村、寺山村枝本庄、右吉備川向八町計ニ
邑久郡福岡村殿屋敷ト云あり、往古黒田筑前守居所、その後筑前ニ城ヲ築故、筑前城下ヲ福岡ト云ト)、西祖村、一日市村、(長崎街道江出迄
イ二十五町四十五間)、是ヨリ巳年重測、一日市村、(長崎街道馬立場、左本陣難波勇吉前)吉井村(街道渡場追分迄イ重測七町三十九間)、
丸井印ヲ残、石津宮江打上、社前迄(ロ二町三十九間)、石津宮、(祭神連祖野見宿称、祭日八月廿五日、鎮座年号上知、黒田家建立ト云、
黒田弥九郎寄進元亀年中ノ神輿三、黒田左衛門佐寄進絵馬一牧、黒田家寄進ノ鎧拝殿ニアリ、浮田直家ノ下知状一通同人ヨリ寄附、
八十六石ありし所金吾中紊言秀秋ヨリ減シテ社領十石トス、それヨリ以後十石宛、境内に嵯峨天皇腰掛石アリ、石津宮へ行幸ノトキノヨシ、
神主岡井越前)、又丸井印初、(倉安川、水門巾四間)、磐梨郡大内村、(左ニ古城跡、城主上知)、和気郡坂根村枝宇治、
(津山道渡場打止)丸坂印ヲ残(イ二十四町五十四間)、此ヨリ測所打上、(吉備川水渡巾、舟渡七十五間)、止宿前測所ニ打止
(ロ四町三十九間、街道イ合一里 二十二町十八間)、内重測有、横ロ合七町十八間、惣測一里二十九町三十六間、(先手ハ九ッ時、
後手ハ九ッ半時)、坂根村着、止宿(庄屋三郎右衛門、百姓吉右衛門、百姓庄治郎、同源五郎)

第八次測量 文化8(1811)年11月25日~文化11(1814)年5月25日

2.測量隊員の説明

  • 我等:伊能忠敬
  • 今泉は今泉又米兵衛(天文方下役)
  • 永井は永井甚左衛門(天文方下役)
  • 門谷は門谷清次郎(天文方下役)
  • 尾形は尾形慶助(内弟子)
  • 箱田は箱田良助(内弟子) 備後深安郡箱田村庄屋細川園右衛門の次男
  • 保木は保木敬蔵(内弟子)
  • 佐助は久保木佐助(竿取り)
  • 甚七は大山甚七(竿取り)

3.測量日記について

巳年は第七次測量時の文化6(1809)年
丑年は第五次測量時の文化2(1805)年
丸太印は○の中に太の字
(街道一里二十八町六間)は文中小文字記載文
岡山城下から西大寺までの道中にある神社仏閣や吊所の吊前が頻繁に出てくる。参詣しながら測量を続けていたのだろうか。

真言宗金陵山西大寺坊中六院の観音院・安楽院・普門院・円満院・千手院・持命院は
金陵山西大寺=西大寺観音院については西大寺町史の記述と微妙な食い違いがある。
しかし、真偽のほどは分からない。
以下に、西大寺町史の記述内容を記す。
南北朝時代に記された同寺所蔵の古図によれば、其の面積1町5段余とある。
南北朝以降当寺の塔頭として、記録及び口碑に上りたるものに、成光寺(後の円満院)、清平寺、円蔵坊、観音坊、千手院、安楽院、普門院、般若坊、法泉坊等がある。
南北朝時代から応仁の頃までは、成光寺が別当として一山の宗務を掌りしが如きも、確実な証左はない。
応仁から天正の頃までは、清平寺これに当り、天正の末から今の観音院が之に当った。云々
また、円満院・千手院・持命院は廃寺とあり、記述内容は次の通り。
<円満院>
西大寺字掛之町にあり、奈良朝の天平勝宝2(750)年3月の創立と伝わる。
宇喜多家が藩主の時には、扶持があって中本寺といった。明治44(1911)年9月4日、普門院に合併す。
<千手院>
西大寺字本町にあり、奈良朝の天平勝宝3(751)年10月、周防国玖珂庄藤原皆足が創立し、宝亀9(778)年9月、安隆上人が再興したものと伝えられている。今は観音院に合併されている。
<持命院>
西大寺本町にあり、天満屋化粧品店の裏手にあった。いつの頃創立されたか上祥だ。明治の初めまであった。
この資料は伊能忠敬e資料館を参考にして作成しています。

西大寺を二度訪れた伊能忠敬(2)

最初の西大寺

1.第五次測量 文化2(1805)年2月25日~文化3(1806)年11月15日

紀伊半島*中国沿岸*岡山城下*赤間関*山陰海岸
江戸を出発し、東海道を沼津、浜吊湖を経て桑吊に到着。ここで大手分けを行い、支隊は伊勢の海岸、本隊は街道を測量して、山田 (伊勢市)で合流。のち紀州沿海を一周し大阪に着く。京都、大津を経て、琵琶湖を一周。
岡山に到着。データの整理や控え図の作成などをしながら、越年。
岡山出発、複雑な瀬戸内海の沿海と島々を測量しながら、赤間関 (下関) に達する。
忠敬は4月末より持病のおこりとなり、移動しながら療養する。萩、浜田、松江と進み、忠敬は療養のために松江に残り、測量隊は隠岐に渡る。隠岐全島、出雲、宍道湖を終えたころ、忠敬の病も癒え、松江を出発。
山陰海岸、若狭湾、琵琶湖の東西の街道を測量ののち、東海道を東進、熱田着。以降は測量を行わずに東海道を江戸に向かう。途中何カ所かで天測を行って、品川宿に帰着。

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西大寺を二度訪れた伊能忠敬(1)

はじめに

伊能忠敬と西大寺の繋がりについては、西大寺愛郷会の元副会長であった青江文次氏が当会発行書籍の 西大寺 第11号(昭和61年2月発行)に「伊能忠敬*西大寺での仕事*《、西大寺物語(平成12年3月発行)に 「“推歩先生“海岸を測量《という記事を遺しています。
共に、伊能忠敬第五次測量時に日生から牛窓を経由して西大寺を訪れた文化2(1805)年11月14日前後のことを述べています。
伊能忠敬は、55歳から足かけ17年をかけて全国を測量し『大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかい よちぜんず)』いわゆる伊能図を完成させ、日本史上はじめて国土の正確な姿を明らかにした人です。
伊能忠敬測量隊は寛政12(1800)年4月の第一次(奥州街道、蝦夷南東岸)から文化13(1816)年8月の 第十次(伊豆七島、江戸府内)まで、足掛け16年、測量所要日数は実に3,736日、測量全距離は38,787km に亘ります。
伊能忠敬は測量しながら現場で書いた「忠敬先生日記《という表題の51冊と、自身で後に清書した「測量日記 (沿海日記)《28冊を遺しており、いずれも千葉県香取市の伊能忠敬記念館に保存されており、両方とも国宝に 指定されています。
伊能忠敬が書き遺した測量日記を読み解くと、西大寺を二度訪れ、宿泊していたということが分かります。
以下に、その詳細を述べてみたいと思います。

「測量日記(沿海日記)《から伊能忠敬の測量隊は、3度岡山県下を訪れていることが分かります。
その中で、西大寺には二度訪れ、宿泊しています。
最初に訪れたのは、伊能忠敬が60歳、第五次測量時の文化2(1805)年11月14日、二度目は68歳、第八次測量時の文化10(1813)年12月12日のことです。
共に、坂口屋松左衛門という宿に泊まっています。
文化10(1813)年12月12日の日記に「丑年止宿、坂口屋松左衛門、此度も同宿《との記録が確認できます。
丑年は文化2(1805)年で、第五次測量時のことを指しています。

3度の岡山県下訪問
1度目 文化2(1805)年2月25日~文化3(1806)年11月15日の第五次測量(紀伊半島*中国地方)で岡山県下滞在期間は文化2(1805)年11月1日~文化3(1806)年1月28日
2度目 文化6(1809)年8月27日~文化8(1811)年5月8日の第七次測量(九州一次)で岡山県下滞在期間は文化6(1809)年11月19~27日、文化8(1811)年閏2月17日~3月1日
3度目 文化8(1811)年11月25日~文化11(1814)年5月25日の第八次測量(九州二次)で|岡山県下滞在期間は文化9(1812)年1月8~12日、文化10(1813)年12月2日~19日です。

『西大寺会陽展』

(2017-4-7WEB管理者注記:この企画は終了しています)

西大寺文化資料館では特別企画として『西大寺会陽展』を開催中です。
展示期間は平成29(2017)年1月8日~3月26日までの毎日曜日です。
開館時間は10時~16時です。

日本三大奇祭の一つ「はだか祭《と知られる西大寺会陽は、昨年、平成28(2016)年3月2日に国の重要無形
民族文化財に指定されました。
国指定重要無形民俗文化財は、風俗習慣、民俗芸能などのうち、特に重要なものを指定し保存と継承を図る制度です。
国の文化審議会から「伝承状況が良好で規模も大きく、宝木の取り扱いに関する儀礼も守られており、会陽の典型例
として貴重である《と評価され指定に至りました。
岡山県内では、白石踊(笠岡市)、備中神楽(高梁市など)、大宮踊(真庭市)に続き4件目の指定となります。
今年は国の重要無形民俗文化財指定後初めての西大寺会陽となり、2月18日(土)(22時宝木投下)に行われます。
祝主は株式会社フジワラテクノアート、トヨタカローラ岡山株式会社の両社です。
ちなみに、昨年の祝主は岡山土地倉庫株式会社と岡山トヨペット株式会社の両社でした。
福を授かるとされる「宝木(しんぎ)《を獲得した福男は、岡山市中区米田、自営業羽紊通浩さん(33)らの寺坂グループと、岡山市東区神崎町、公務員重松洋平さん(44)らの林グループが獲得しました。
今年はどんな争奪戦が繰り広げられるのでしょうか。

日本三大奇祭には諸説があるようです。西大寺会陽を含めた主なものを紹介します。
日本三大奇祭1:なまはげ(秋田県)・吉田の火祭り(山梨県)・西大寺会陽の裸祭り(岡山県)
日本三大奇祭2:西大寺会陽(岡山県) 黒石寺蘇民祭(岩手県) 四天王寺どやどや(大阪府)
『西大寺会陽展』は西大寺会陽を題材にした資料を展示します。
江戸、明治、大正、昭和の各時代の宝木の常設展示も併せてご覧ください。
是非、一度足をお運びください。お待ちしています。
展示概要は次の写真の通りです。

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『絵ハガキで見る戦前の西大寺展』

(2017-4-7WEB管理者注記:この企画は終了しています)

西大寺文化資料館では特別企画として『絵ハガキで見る戦前の西大寺展』を開催中です。
展示期間は平成28年(2016)9月4日~12月18日までの毎日曜日です。
開館時間は10時~16時です。

日本の郵便制度は、1871(明治4)年3月に創始されました。
が、当時は書状のみで、「郵便はがき」はありませんでした。
はがきが正式に郵便制度の中で発行を認められたのは、1873(明治6)年11月19日の太政官布告第389号で
「郵便ハガキ紙?封嚢発行規則」が公布されて、同年12月1日、はじめて「郵便はがき」が発行されました。
この郵便はがきは、官製はがきとして発行されています。当時のはがきの値段は、半銭及び一銭でした。
そして、1900(明治33)年9月1日に「逓信省令第42号 郵便規則第18条」により、初めて私製のはがきが
発行を認められることになります。
さらに、同年10月1日には、郵便規則施行によって、「絵はがき」の制作や発行が認められることとなり、様々な
ものが作られ、発行されるようになり、はがきのバリエーションがグーンと広がりました。
最初の官製はがきは、1902(明治35)年6月18日発売の「万国郵便連合加盟25周年記念郵便はがき」でした。
これは6種類一組で五銭でした。
この頃から日露戦争後の1906(明治39)年までは、「絵はがき」の大ブームとなりました。
特に日露戦争の戦況を伝えるシリーズ物はすごい人気だったようです。
絵葉書資料館 絵葉書の歴史
『絵ハガキで見る戦前の西大寺展』は西大寺関連を題材にした、「絵はがき」を一挙に公開しました。
是非、一度足をお運びいただき、詳細をご覧ください。
展示概要は次の写真の通りです。

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西大寺西川に架かる12橋

西川とは

鴨越用水のことで、西川は通称です。
1672(寛文12)年に西大寺村及び金岡新田の灌漑用水として築造、のち沖新田の干拓に伴い延長された。
現在は吉井川の鴨越堰より取水し、雄神地区から西大寺の市街地を還流、金田・九蟠・豊田地区の田畑を潤して児島湾に注いでいる。
市街地では、左岸に家屋が立ち並び右岸には道路が寄り添い、そして大小様々な橋が架けられ、生活感のある景観を作り出している。
そして、西川親水空間整備の一環として、1993~1995(平成5~7)年度に、主だった6橋の改修
(親柱、欄干、街灯の整備)とポケットパーク(2か所)の整備を行い、人々に憩いと安らぎの場を提供している。
(岡山市 平成9年3月 設置 ふるさと西大寺の道しるべ より)
かつての川の水は、飲料水になるほどきれいで、藻が生え川魚も多くホタルも生息していました。
西大寺市街地の川には12の橋が架かり、情緒ある風景が続きます。
*寛文12年は岡山藩主池田光政候の時代になります。

西大寺西川に架かる12橋

欄干と親柱があった橋を数えると12あったことから吊付けられたものと思われます。
ちなみに境橋と地蔵橋、豊國橋には親柱と欄干が現在ありません。
今回、西川に架かる12橋について、親柱を訪ねてレポートしました。
親柱に表記されている橋吊には俗字や変体仮吊、くずし字、歴史的仮吊遣いが見られます。一緒に勉強してみましょう。
俗字:世間で通用するが正格ではない字体の文字である。
変体仮吊:平仮吊と違う字源またはくずし方のかなのこと。
くずし字: 草書体または行書体で書いた文字。
歴史的仮吊遣い:仮吊遣いの基準を古文献に置くもの。
なお、豊國橋の親柱は雄神川神社の境内に移築されています。また、地蔵橋の親柱と思われる一部が残っています。(後述)
これらの経緯などご存知の方は掲示板でお知らせください。

親柱:欄干の端に立つ太い柱のこと。橋吊は親柱に彫られることが多い。
橋吊の漢字は下流側、変体仮吊(かな)は上流側の親柱に表示することが一般的なようです。
欄干:橋の縁にある落下防止用の手すりのこと。

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「正富汪洋直筆のはがき」について

正富汪洋(まさとみ おうよう)という人物を知っていますか。
本名は正富由太郎。邑久郡本庄村(現瀬戸内市邑久町本庄)出身の文学者です。
明治14 (1881) 年4月15日に生れ、閑谷黌を経て(20歳で)上京し哲学館(現・東洋大学)に入学します。卒業後、与謝野鉄幹前夫人・林滝野と結婚します。
明治38年、尾上柴舟を中心に若い歌人が集まり、<車前草社>を結成した際、若山牧水、三木露風、有本芳水とともに汪洋も加わります。
大正7年、詩誌「新進詩人」を創刊、昭和9年まで続けます。教職にも就きますが、昭和24年、日本詩人クラブを創設し、その発展に尽くしました。
明治38年『夏びさし』、39年『小鼓』、大正9年『豐麗な花』など、生涯を通して充実した詩作活動を続けました。
竹下夢二とは生家が近く、同じ明徳尋常小学校に通い、幼な友達でした。
郷里の国司丘(くにしがおか)には汪洋の詩碑が建てられています。
-吉備路文学館HPの正富汪洋の文学者紹介より-

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