西大寺の芭蕉の句碑

西大寺にあるもう一つの芭蕉の句碑を訪ねて

西大寺に二つの芭蕉の句碑があることをご存知でしょうか。
西大寺の芭蕉の句碑については、西大寺愛郷会発行図書「西大寺 第14号(平成元年2月発行)」の、「西大寺の芭蕉の句碑」(藤原大八氏記)に詳述があります。
一つの句碑については、普門院の境内にあり、西大寺町誌にその記述があり、西大寺の神社・遺跡巡りにも紹介されています。
しかし、もう一つの句碑については、知る人ぞ知る存在で、元久保東郷土民芸資料館の庭から西大寺鴨越水源地にある鴨越亭の横に移設されていたことが判明しました。
西大寺の先達の方々が遺された貴重な文化財を広く知らしめるべきとの思いと、「西大寺の芭蕉の句碑」(藤原大八氏記)の後日談として、追跡調査結果を報告いたします。

“西大寺の芭蕉の句碑” の続きを読む

戦後70年 『戦争と平和を考える』 特別展示

(2017-4-7WEB管理者注記:この企画は終了しています)

1945年8月15日。多くの尊い命が犠牲になった太平洋戦争の終結から、70年の節目を迎えました。
「戦後70年《に際し、『戦争と平和』を考えるきっかけづくりになればと、西大寺文化資料館の特別展示を企画しました。
8月2日~30日の毎日曜日 10時から16時に開館しています。
下の写真は展示概要です。 是非、一度足をお運びいただき、詳細をご覧ください。

“戦後70年 『戦争と平和を考える』 特別展示” の続きを読む

西大寺の歴史-その1-

西大寺の変遷と今も残る町名を探る

西大寺が地名として用いられるようになったのは、我が国の郷村の発生期である室町時代中期以降と思われる。
西大寺村という表記が見えるのは、撮要録の慶長11年(1606)の検地帳に出ているのが初出である。
江戸時代の終りまで西大寺村が使用され、明治に入ってもそのままの呼び名が続いた。

明治22年6月町村制が施行され、町村の区域名称を変更して、浅越・吉原・西庄・広谷・松崎・中野の6ヵ村を合わせて芳野村とし、旧村名を大字としたが、西大寺村、金岡村はそのまま残し、ただ金岡村から金岡新田を離したのを金田村と称した。

西大寺村は明治29年2月26日(旧1月13日)西大寺町となったが、昭和12年金岡村と合併して、西大寺・金岡の大字となり、同15年12月芳野村と合併して、芳野村の6大字は西大寺町の大字となった。
しかし「大字」という文字は用いず、西大寺町西大寺、同町金岡、同町浅越……同町中野の如く称えた。
以上は行政上の名称であるが、市街地である旧西大寺町は別に自治組織の上から18区画を定め、次の呼び名を用いた。
上之町(もと上新堀)・沖・金山・新堀町・北之町・中福町・川崎町・市場町・本町・幸町・新町・掛之町・元町・駅前通・旭町・中村町・今町・渡場町

昭和28年2月、14町村の内の西大寺町と古都・可知・光政・津田・九蟠・金田・豊・幸島・太伯各村と邑久町の内の長沼(東谷地区のぞく)の11町村が合併し、西大寺市を新設、かつての西大寺村域に市役所を構えた。翌年には邑久郡大宮村の内の一部(宿毛)が西大寺市へ編入し、続く同30年に上道郡雄神村・邑久郡朝日村の2ヶ村が編入、さらに同31年には邑久郡大宮村(千手地区の一部は牛窓町へ編入)が編入合併し、現在の西大寺エリアが確定した。

西大寺市は地域の振興政策に積極的に取り組んだが、岡山県南百万都市構想を経て、活路を岡山市との合併に求めることとなり、昭和44年2月18日に岡山市への西大寺市の編入合併が成立、16年間の市政にピリオドを打った。

平成21年4月1日には、岡山市が政令指定都市へ移行し行政区が置かれ、当地は東区の管轄となり、旧地域センター(支所)が東区役所本庁となる。当地は本庁の管轄となった。

以上が西大寺の行政区の歴史である。

これ以前の歴史については、「西大寺14号」旧西大寺町の地名(青江文治氏著)その他を参照されたい。

前述の自治組織上の18区画のうち、西大寺学区の町内会の町名として今も残る次の町名の起りを記す。

“西大寺の歴史-その1-” の続きを読む

東大寺の瓦出土の謎

昭和30年ごろ、吉井川の東岸を多くの浚渫船が掘った。その時、多数の土器とともに東大寺の瓦が上った。
遠い奈良の東大寺の瓦がなぜ西大寺の吉井川の底から出たのか。
その答えは、奈良-万富-西大寺という線で解決します。
奈良の東大寺は752年に建立されますが、1180年の源平の兵乱で、平氏の軍勢が東大寺に火を放って 炎上します。
源頼朝は、その再建を図るべく、俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)を大勧進の職に任命します。
重源は瀬戸町万富に(JR山陽本線万富駅付近)に窯(万富東大寺瓦窯跡)を築き、瓦を焼いた。
その瓦を輸送するために吉井川を下る船が利用されたという訳です。
当時の西大寺は河口に当たるが、吉井川の砂のため川底が浅いので、瀬戸内海を走る大型の船に積み替える必要があった。その作業中に川に落下したものが、約800年もの間、砂の中で眠っていたということです。
瓦には、平瓦と、軒瓦の2種類があり、何れも「東大寺」の文字が刻まれています。
大船に積み込まれた大量の瓦は、瀬戸内海を東に進み、大和側や傷川を経由して奈良の都に到着し、新築された東大寺の屋根にのせられたのです。
(以上は、青江文次著 西大寺物語の「7.東大寺の瓦出土の謎」を要約し転載したものです)

西大寺のミシン

所蔵品の紹介とミシンの歴史

ミシンは、説明するまでもありませんが、「織物(布)、皮、紙などを糸で縫い合わせるのに用いられる機械」です。
1960年代(昭和35~45年)までは手回し式や足踏み式などの人力のミシンが主流でありましたが、近年では、電動になり、電子化、そしてコンピューター搭載へと進化し、キャラクターや複雑な模様まで簡単できれいに縫えるミシンが数多く
開発されています。

西大寺文化資料館では、昔懐かしい手回し式や足踏み式のミシンを所蔵しています。
所蔵品の紹介とともに、ミシンの歴史を振り返り、在りし日の西大寺を思い浮かべてみましょう。

(2017-4-7WEB管理者追記:オリジナルページに含まれる、ブラザー「昭三式環縫ミシン」福助足袋縫い鉄輪ミシン、その他の画像一部に正当な使用権が確立したものか不詳の数点があり、オリジナルページの続きの掲載を見合わせています)

西大寺を二度訪れた伊能忠敬(3)

二度目の西大寺

1.第八次測量 文化8(1811)年11月25日~文化11(1814)年5月25日

江戸出立。この旅を前に忠敬は、家政や事業についての教訓と隠居資産約1100両の分配方法を記した「遺言状《 ともとれる書状を長子景敬あてに書き残している。万一の場合も考えての出発だった。
藤沢から御殿場に出、富士周辺の街道を測量したのち、測量を行わずに裏海道、山陽道を経て、小倉に着く。
小倉からは手分け測量で北九州の内陸部を南下、忠敬組は大口から、坂部組は串木野方面から鹿児島に入る。
山川湊から屋久島に渡る。続いて種子島に移って測量し、鹿児島に帰る。北上して九州内陸部を縦横に測り、
小倉に出る。北海岸沿いに博多、唐津、伊万里から佐賀、久留米と回る。続いて有明海岸を西に進み鹿島、 諌早から島原半島を一周して大村へ。大村湾を手分けして測り、佐世保で越年。
周辺の島々を測量して平戸へ。平戸島と松浦地方、近隣の福島、大島、鷹島、生月島などを測って、壱岐に渡る。
15日間測量したのち対馬へ渡り、53日間対馬全域を測る。平戸に戻り、五島列島に渡り北端の宇久島から測り はじめる。
五島列島の測量には66日かかった。信頼していた副隊長の坂部貞兵衛が福江島で病死。忠敬は悲嘆に暮れる。
長崎着。長崎半島を一周したのち別路を測って小倉に着く。赤間関 (下関) からは、中園地方の内陸部を縦横 に測量しながら帰府の途についた。広島、松江、米子、鳥取、津山、岡山と回り、姫路城下で越年する。
姫路から北上、西脇、生野、福知山、宮津を経て、京都へ。東海道を四日市まで行き、北上して岐阜、大垣、 下呂から高山に出て、古川から反転、野麦峠を越えて木曽谷に入る。
薮原、洗馬から松本に出て善光寺に参拝。さらに飯山城下まで進んでから南下して、須坂、松代、追分、富岡、 大宮、川越を経て、板橋宿に帰着した。旅行日数は914日に及び、伊能隊最長の測量旅行となった。

文化10年12月11日

曇天、備前国津高郡岡山領中牧村枝十谷出立、同所人家下丸十印初、枝湯須、朝日川郡界湯須ノ渡ト云、赤坂郡大鹿村、鍋谷村、(昼休庄屋伝三郎)、枝河瀬、
牟佐村枝大久保、同村内字上分、字下分人家前、別手岡山街道渡場ヨリ川筋ヲ打上残ス㊦印ニ繋終、(街道一里二十八町六間)、
同所ヨリ乗船二里旭川ヲ乗下シ岡山城下江着、両手出会

12月12日

曇晴、六ッ時後両手一同岡山城下下ノ町出立、後手我等、今泉、尾形、箱田、佐助、
岡山市中西中島、京橋、東橋詰ヨリ初、(巳年ノ重測、中嶋橋巾二十四間)、
東中嶋町(小橋二十三間)、小橋町三辻追分迄(重測三町三十間)、此ヨリ西大寺村道新測、字蛇谷、門田村、
(左臨済宗岡山三友寺
真直四町計上ニ東照宮ノ御神廟、別当天台宗東光山少○寺利光院、寺領三百石、
左浄土宗光照山台祟寺円月院、寺領三百石、左一町計引込、玉井宮社領十一石九斗、祭八月二十五日神主佐々木対馬、
左真言宗幣達山大徳院能満寺、寺領五石九斗五升、左五百羅漢道、此ヨリ三町引込)、枝峠(小休伯耆屋儀兵衛)、
湊村(左天台宗瑞光山仏心寺、寺領二十人扶持)、
枝池ノ内円山村、枝四軒屋、山崎村、(倉安川土橋九間、舟往来あり)、字新橋、福泊村、(右四五町畠中ニ沖新田人家あり、
沖新田ハ表一番・三番・四番・五番・六番・七番・九番、
惣日右五町計、裏一番・三番・四番・五番、表ニ属、裏七番ハ一村となり、
倉田・倉益・倉富ヲ合、十一村、三万石、沖新田、山添、円山村ニ臨済宗護国山曹源禅寺
国主ノ菩提寺国印九十九石五斗四升弐合)、海面村、字出村、先手初丸太印ニ繋、一里十町十二間三尺、惣測一里十三町四十二間三尺、(昼休庄屋安太郎)、
それヨリ無測、八ッ時後、西大寺村着、先手永井・門谷・保木・甚七、備前国上道郡岡山領海面村字出村、丸太印初、中川村(悪水川土橋十五間)、枝益野、松崎新田村、
枝小林、広谷村(古川用水土橋六間)、中野村(砂川土橋廿六間)、枝新橋、西大寺村、新町・西町・(一日市通・川端道)追分、
西大寺門前丸西印ニ打止、(街道一里十三町十八間、左ニ真言宗金陵山西大寺、寺領五十七石七升三合)、本堂十一面観音、
坊中六院、(観音院・安楽院・普門院・円満院・千手院・持命院、当寺会陽正月十四日)、此ヨリ掛ノ町、丑年止宿、坂口屋松左衛門、
(此度も同宿)、前測所迄測、(横四十五間)、惣測一里十四町三間、九ッ時頃、西大寺町着、止宿(坂口屋松左衛門・五明屋惣治郎)、
此朝、細川園右衛門・同中書・
谷東平
・瀬尾是輔・妹尾新三郎、坂下外迄送別、此夜曇天三星測、(上道郡草ヶ部村大庄屋井上三郎兵衛・
和気郡香登村、同伊賀安助)・磐梨郡大庄屋(江尻村土井辰治郎・坂根村左近義三郎)・邑久郡大庄屋、(下笠加村森太郎右衛門・新村草井六郎右衛門・大ヶ島村、中山文治郎)出ル

12月13日

曇天、六ッ時後一同備前国上道郡西大寺村出立、後手我等、門谷、保木、尾形、佐助、同所西町西大寺門前丸西印ヨリ初、(西大寺川通、向一日市測)、市場町、福田町、上福田町、
川端、(丑年重測限迄四町五十五間二尺)、原村、(往来地方なし、人家計出ル)、字河本、久保村、左八幡宮、(社領十一石弐斗四升四合、
祭日八月廿三日、神主藤井右兵衛、往来ニ浮田秀家?ト云老松あり)、枝鴨越、鴨越峠、西隆寺村、百枝月村、(枝岡、同中、百枝月、
内ヶ原)村界、先手初丸内印ニ繋(一里十五町四十六間三尺、惣測一里二十町四十一間五尺)、先手永井、今泉、箱田、甚七、(百枝月、内ヶ原村界丸内印初、吉備川筋、津山道測、内ヶ原村、寺山村枝本庄、右吉備川向八町計ニ
邑久郡福岡村殿屋敷ト云あり、往古黒田筑前守居所、その後筑前ニ城ヲ築故、筑前城下ヲ福岡ト云ト)、西祖村、一日市村、(長崎街道江出迄
イ二十五町四十五間)、是ヨリ巳年重測、一日市村、(長崎街道馬立場、左本陣難波勇吉前)吉井村(街道渡場追分迄イ重測七町三十九間)、
丸井印ヲ残、石津宮江打上、社前迄(ロ二町三十九間)、石津宮、(祭神連祖野見宿称、祭日八月廿五日、鎮座年号上知、黒田家建立ト云、
黒田弥九郎寄進元亀年中ノ神輿三、黒田左衛門佐寄進絵馬一牧、黒田家寄進ノ鎧拝殿ニアリ、浮田直家ノ下知状一通同人ヨリ寄附、
八十六石ありし所金吾中紊言秀秋ヨリ減シテ社領十石トス、それヨリ以後十石宛、境内に嵯峨天皇腰掛石アリ、石津宮へ行幸ノトキノヨシ、
神主岡井越前)、又丸井印初、(倉安川、水門巾四間)、磐梨郡大内村、(左ニ古城跡、城主上知)、和気郡坂根村枝宇治、
(津山道渡場打止)丸坂印ヲ残(イ二十四町五十四間)、此ヨリ測所打上、(吉備川水渡巾、舟渡七十五間)、止宿前測所ニ打止
(ロ四町三十九間、街道イ合一里 二十二町十八間)、内重測有、横ロ合七町十八間、惣測一里二十九町三十六間、(先手ハ九ッ時、
後手ハ九ッ半時)、坂根村着、止宿(庄屋三郎右衛門、百姓吉右衛門、百姓庄治郎、同源五郎)

第八次測量 文化8(1811)年11月25日~文化11(1814)年5月25日

2.測量隊員の説明

  • 我等:伊能忠敬
  • 今泉は今泉又米兵衛(天文方下役)
  • 永井は永井甚左衛門(天文方下役)
  • 門谷は門谷清次郎(天文方下役)
  • 尾形は尾形慶助(内弟子)
  • 箱田は箱田良助(内弟子) 備後深安郡箱田村庄屋細川園右衛門の次男
  • 保木は保木敬蔵(内弟子)
  • 佐助は久保木佐助(竿取り)
  • 甚七は大山甚七(竿取り)

3.測量日記について

巳年は第七次測量時の文化6(1809)年
丑年は第五次測量時の文化2(1805)年
丸太印は○の中に太の字
(街道一里二十八町六間)は文中小文字記載文
岡山城下から西大寺までの道中にある神社仏閣や吊所の吊前が頻繁に出てくる。参詣しながら測量を続けていたのだろうか。

真言宗金陵山西大寺坊中六院の観音院・安楽院・普門院・円満院・千手院・持命院は
金陵山西大寺=西大寺観音院については西大寺町史の記述と微妙な食い違いがある。
しかし、真偽のほどは分からない。
以下に、西大寺町史の記述内容を記す。
南北朝時代に記された同寺所蔵の古図によれば、其の面積1町5段余とある。
南北朝以降当寺の塔頭として、記録及び口碑に上りたるものに、成光寺(後の円満院)、清平寺、円蔵坊、観音坊、千手院、安楽院、普門院、般若坊、法泉坊等がある。
南北朝時代から応仁の頃までは、成光寺が別当として一山の宗務を掌りしが如きも、確実な証左はない。
応仁から天正の頃までは、清平寺これに当り、天正の末から今の観音院が之に当った。云々
また、円満院・千手院・持命院は廃寺とあり、記述内容は次の通り。
<円満院>
西大寺字掛之町にあり、奈良朝の天平勝宝2(750)年3月の創立と伝わる。
宇喜多家が藩主の時には、扶持があって中本寺といった。明治44(1911)年9月4日、普門院に合併す。
<千手院>
西大寺字本町にあり、奈良朝の天平勝宝3(751)年10月、周防国玖珂庄藤原皆足が創立し、宝亀9(778)年9月、安隆上人が再興したものと伝えられている。今は観音院に合併されている。
<持命院>
西大寺本町にあり、天満屋化粧品店の裏手にあった。いつの頃創立されたか上祥だ。明治の初めまであった。
この資料は伊能忠敬e資料館を参考にして作成しています。

西大寺を二度訪れた伊能忠敬(2)

最初の西大寺

1.第五次測量 文化2(1805)年2月25日~文化3(1806)年11月15日

紀伊半島*中国沿岸*岡山城下*赤間関*山陰海岸
江戸を出発し、東海道を沼津、浜吊湖を経て桑吊に到着。ここで大手分けを行い、支隊は伊勢の海岸、本隊は街道を測量して、山田 (伊勢市)で合流。のち紀州沿海を一周し大阪に着く。京都、大津を経て、琵琶湖を一周。
岡山に到着。データの整理や控え図の作成などをしながら、越年。
岡山出発、複雑な瀬戸内海の沿海と島々を測量しながら、赤間関 (下関) に達する。
忠敬は4月末より持病のおこりとなり、移動しながら療養する。萩、浜田、松江と進み、忠敬は療養のために松江に残り、測量隊は隠岐に渡る。隠岐全島、出雲、宍道湖を終えたころ、忠敬の病も癒え、松江を出発。
山陰海岸、若狭湾、琵琶湖の東西の街道を測量ののち、東海道を東進、熱田着。以降は測量を行わずに東海道を江戸に向かう。途中何カ所かで天測を行って、品川宿に帰着。

“西大寺を二度訪れた伊能忠敬(2)” の続きを読む

西大寺を二度訪れた伊能忠敬(1)

はじめに

伊能忠敬と西大寺の繋がりについては、西大寺愛郷会の元副会長であった青江文次氏が当会発行書籍の 西大寺 第11号(昭和61年2月発行)に「伊能忠敬*西大寺での仕事*《、西大寺物語(平成12年3月発行)に 「“推歩先生“海岸を測量《という記事を遺しています。
共に、伊能忠敬第五次測量時に日生から牛窓を経由して西大寺を訪れた文化2(1805)年11月14日前後のことを述べています。
伊能忠敬は、55歳から足かけ17年をかけて全国を測量し『大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかい よちぜんず)』いわゆる伊能図を完成させ、日本史上はじめて国土の正確な姿を明らかにした人です。
伊能忠敬測量隊は寛政12(1800)年4月の第一次(奥州街道、蝦夷南東岸)から文化13(1816)年8月の 第十次(伊豆七島、江戸府内)まで、足掛け16年、測量所要日数は実に3,736日、測量全距離は38,787km に亘ります。
伊能忠敬は測量しながら現場で書いた「忠敬先生日記《という表題の51冊と、自身で後に清書した「測量日記 (沿海日記)《28冊を遺しており、いずれも千葉県香取市の伊能忠敬記念館に保存されており、両方とも国宝に 指定されています。
伊能忠敬が書き遺した測量日記を読み解くと、西大寺を二度訪れ、宿泊していたということが分かります。
以下に、その詳細を述べてみたいと思います。

「測量日記(沿海日記)《から伊能忠敬の測量隊は、3度岡山県下を訪れていることが分かります。
その中で、西大寺には二度訪れ、宿泊しています。
最初に訪れたのは、伊能忠敬が60歳、第五次測量時の文化2(1805)年11月14日、二度目は68歳、第八次測量時の文化10(1813)年12月12日のことです。
共に、坂口屋松左衛門という宿に泊まっています。
文化10(1813)年12月12日の日記に「丑年止宿、坂口屋松左衛門、此度も同宿《との記録が確認できます。
丑年は文化2(1805)年で、第五次測量時のことを指しています。

3度の岡山県下訪問
1度目 文化2(1805)年2月25日~文化3(1806)年11月15日の第五次測量(紀伊半島*中国地方)で岡山県下滞在期間は文化2(1805)年11月1日~文化3(1806)年1月28日
2度目 文化6(1809)年8月27日~文化8(1811)年5月8日の第七次測量(九州一次)で岡山県下滞在期間は文化6(1809)年11月19~27日、文化8(1811)年閏2月17日~3月1日
3度目 文化8(1811)年11月25日~文化11(1814)年5月25日の第八次測量(九州二次)で|岡山県下滞在期間は文化9(1812)年1月8~12日、文化10(1813)年12月2日~19日です。